巻タリアンニュース 第18号


活躍するOB 1962年(昭和37年度)卒業
オリンピック連続3大会出場 東海大学教授 宇佐美彰朗さん
〜その2〜

3大会連続出場(その1)
1968年メキシコオリンピック9位(25歳)


メキシコを目指し高地トレに参加
マラソンランナー初体験は東京オリンピックの年で、中日マラソン11位。
1966年6月、毎日マラソンで3位となり、全日本強化合宿のメンバーへ。
寺沢徹、君原健二、重松森雄氏ら、日本を代表する偉大なる先輩たちが繰りなす、驚異的練習法とその練習量を目の当たりにした。
翌年2月、別府毎日マラソンで3位に入りメキシコ遠征の6人に加わった。
1968年、強豪ひしめくメキシコ代表選考を兼ねた最終選考大会が琵琶湖毎日マラソンであった。 メキシコを目指し高地トレに参加。スタートからトップ集団に連ね、おり返し後の35キロ、給水地点に近づいて来た。全日本強化合宿メンバーらが構成する先頭集団数人は、お互いが駆け引きしながら一団となって激走を繰り広げていた。給水地点迄あと僅かである。
「これだけ集団で走ると、給水場所で先輩に足でもひっかけたら大事になる」そう考えた宇佐美は道路中央寄りを疾走する集団からスッと左へ移動し前に出た。やがて給水しレースを続行。

沿道の歓声で後続との距離を判断

先頭グループの君原さんや佐々木精一さんらの強豪選手はまだ給水地点に来ていないがすぐ来るだろう。
だが40キロあたりになってもこの状態に変わりは無い。前には誰も居ない。沿道は先頭の自分に声援をしてくれて有り難い。しかし自分が通過するとその後方からの拍手が止んでいる。
ランナー同士の距離は沿道の拍手や歓声で判断できる。もし後続が近いと歓声は前後から耳に入る。
後ろを振り向くと時間ロスになる。見たくとも我慢せざるを得ない。
結局給水地点からゴールまでトップを守り切った。2時間13分49秒。マラソン初優勝の瞬間であった。
翌日のスポーツ紙は「宇佐美優勝。五輪切符確実」などの見出しが踊っていた。
第19回メキシコシティオリンピックは、君原健二、佐々木精一郎と宇佐美彰朗の3人が出場となった。
アベベ(エチオピア)と初めてオリンピックマラソンで一緒にスタートした。

3大会連続出場(その2)
1972年ミュンヘンオリンピック12位(29歳)

第5回福岡国際マラソン
K.・ムーア(米)と首位を争う

第20回ミュンヘンオリンピック出場を確実にしたのは、同年の毎日マラソン優勝であったが、各地の大会で優勝を重ね、名実ともに「世界を代表するマラソンランナー・ウサミ」になっていた。
メキシコ大会での経験を糧に、大学院での研究を兼ね、自ら富士山5合目で合宿し自分の肉体に負荷を与えながらの「人体実験」を試した。
主として血液変化と呼吸法の解析がテーマであった。
高所における運動能力を医学や生理学的に解明したかったからである。
ここで得た人体機能の実験結果は以降の大会記録でその効果を十分検証できる。

マクソール国際マラソン(イギリス)優勝
ソウル国際マラソン(韓国)優勝
福岡国際マラソン(第5回)優勝(2時間10分37秒=歴代世界3位)
アテネ国際マラソン 優勝
ミュンヘンプレ五輪大会 優勝
福岡国際マラソン(第6回)2位
毎日マラソン(第27回) 優勝(通算優勝5回)

3大会連続出場(その3)
1976年モントリオールオリンピック32位(33歳)


第21回モントリオールオリンピックは最終日を雨の中で迎えた。
マラソン出場は宗茂、水上則安らの若手と、代表選考の毎日マラソンで優勝した宇佐美彰朗であった。
宇佐美はこの大会でオリンピックマラソン出場回数を、金栗四三(ストックホルム、アントワープ、パリ)、 君原健二(東京、メキシコ、ミュンヘン)に続いて、日本では史上3人目の3大会連続出場となった。
その後の3大会連続出場を決めたのは、宗茂(モントリオール、モスクワ、ロサンゼルス)、瀬古利彦(モスクワ、ロサンゼルス、ソウル)と続くが、モスクワ五輪を日本は不参加とした為、 オリンピックマラソンコースを3大会連続でスタートラインに立ったのは宇佐美彰朗が最後となっている。
2時間22分29秒2、これがオリンピックマラソンの最後となったモントリオールでの公式記録である。

大学陸上部監督・研究・講演活動
マラソン人生の楽しさを伝えながら新テーマへの挑戦へ


モントリオール大会出場迄の東海大学助教授時代は、非常勤としてマラソン最優先の特権を与えられていた。
41回のマラソン出場を途中棄権なく走り、11大会優勝する輝かしい記録を残したトップアスリート人生を1976年のオリンピック出場後卒業した。テーマを追求し実現したら次なる目標に挑戦し続けてきた。
これ以降は大学陸上部監督も兼ね、かつての経験を生かし、将来ある若い選手の育成に明け暮れ、部長を経て教授になってからは、研究テーマである体育方法論を確立させた。万人がスポーツを取り入れるには同一方式では成り立たない。さらに障害者のスポーツ方法論も新たなテーマとして加える必要があった。

「スポーツボランティア」と「日本スポーツボランティア学会」の創設

ボランティア活動を学校で必修にし単位として認める動きも有り、その活動の範囲は無限に存在する。
NPO法人NSVA(日本スポーツボランティアアソシエーション)は、日本で始めてとなる法人格のスポーツボランティア組織として2003年3月東京都に認証された活動団体である。
宇佐美彰朗氏は自ら理事長となり、市民スポーツの最適環境を創生するため組織的なボランティア活動と力量の向上を提唱し、取り組んでいる。今年で4回目となった東京シティマラソンの主催や障害者の健康維持、レベルアップ、パラリンピックの応援、ウオーキングやジョギング、ランニングの研修活動などがNSVAの活動テーマで、協力してくれるボランティア、学生らも自主的に効果的な運営のアイディアを提供してくれる。
「日本スポーツボランティア学会」は2003年12月に設立された。
市民マラソンはロケーションが広大であり、ボランティアなしでは運営資本が莫大なものとなる。
また視覚障害者をサポートするする際の伴走者は、少なくとも訓練なしでは勤まらない。

今年のアテネパラリンピックマラソン代表の高橋勇一氏は2004年4月、2時間37分台でフルマラソンを走破した。
フルマラソンをこのタイムで走りきる選手をサポートする伴走者は当然一人では不可能である。
ここにスポーツボランティアを生かす方法論が重要なテーマとなり宇佐美彰朗氏が会長となって誕生したばかりの学会である。
各地で開催されるスポーツ大会のボランティア活動データを収集・分析し発表し合う事でボランティアの意義向上を目指している。
マラソン人生を導いてくれた師とのレースをオリンピックで実現

メキシコ五輪選手村で
右端がアベベ
1964年10月21日、東京オリンピックの最終日。2連覇達成に向け往路・復路と甲州街道で見た,先頭を走るビキラ・アベベ32歳の雄姿、精悍なその姿は「マラソン選手とはかくも美しく輝きを呈するものか」とこれ迄に一度も体験したことのない衝撃と感動で、陸上競技開眼間もない20歳の宇佐美彰朗は魅了されていた。エチオピアの英雄が与えてくれた「マラソンランナーへの誘惑」はここで誕生したのであった。
自分には決して実現することの出来ない領域での輝きに酔いしれていた。
だが1968年、高地メキシコシティオリンピックでアベベと競った。
マラソンの桧舞台で同じスタートラインに立ち、今、一緒に走っているのである。
あの甲州街道で受けた衝撃の感動から、4年後に実現した。
「アベベが途中棄権したらしい」。わが同窓生はこれを15キロ地点あたりで耳にするのであった。
    取材協力・宇佐美マラソン・スポーツ研究所
    参照記事・ 新潟日報(ふるさと人物伝)

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