巻タリアンニュース 第21号


活躍するOB 1932年(昭和7年)卒
巻高同窓会・関西支部長 朝倉弘文さん
西遊寺・越前浜の御様(オッ様)は朝倉義景公の末裔

同窓会の壇上で
檄を飛ばす朝倉弘文氏
甲子園出場高歓迎出迎式

大和路の世界文化遺産・法隆寺を望む斑鳩(奈良)在住の朝倉弘文さんは甲子園出場球児の歓迎式をかれこれ30年間続けている。
毎年夏になると越後の甲子園出場校が気になってしかたがない。
新潟県代表校が決定するや「”歓迎”必勝○○高等学校」と自ら筆を入れ巨大な歓迎横断幕を作る仕事が待っている。更に関西新潟県人会の連中に呼びかけ、この横断幕を持ち込み、選手達の関西到着場所まで出向くのである。
恒例となった歓迎行事を執り仕切っている様子は、テレビで何度も紹介されており、昨年は就任1年目の本田仁哉監督(中越高校)一行を伊丹空港で、今年は日本文理高校を新大阪駅で出迎えた。
時には宿舎まで駆けつけ激励の手品を披露したりもする。
県代表として出場回数の多い中越、新発田農業、新潟明訓、新潟商業、長岡などの監督達から「今年も球児たちを連れて参りましたので宜しくお願い致します」と挨拶をされるうちに顔馴染みとなり球児が通る甲子園への関所のような第一歩はこの歓迎式で始まり、朝倉弘文氏を知らない監督はいない。
1995年は初出場の勝雅史監督(六日町高)を出迎え、今年、初戦敗退の日本文理・球児を見送る空港で、 「エース負傷でも越後人として誇れる、立派な戦いを見せてくれて有難う」と頭を下げ、監督は感極まり涙した。
2004年10月、新潟明訓高校の創立80周年記念には、関西県人会と野球が縁で来賓として招待されている。
「関西新潟県人会幹事長・朝倉弘文氏、母校・巻高校と歓迎式でご対面」のニュースは逸したが今年の夏は活躍凄まじい巻高野球部のニュースを聞くにつけ、じっとしては居られなくなってしまった。

故郷・越前浜から2人の選手
野球部員達は明日の試合に備えて学校のグラウンドで練習をしていた。
「監督、今年の巻高は強そうですなあ」背後からの元気な声に、練習を見守っていた勝雅史先生が振り向くとそこには熱心な高校野球支援者・朝倉弘文氏の姿があった。
「(生徒達を甲子園に連れて来て頂きたく)今日はお願いに参りました」。練習場へ足を運んでくれたのである。
先生をはじめ部員達が驚嘆・感激した事は言うまでも無い。
今年のメンバーで、エース・篠田恭兵、キャプテン・小林竜典の両選手が同郷の「越前浜」出身となると遠くからの声援では物足りないとばかりに、自宅(奈良)から新潟へ体を移動したのは7月の半ば。
球児達を応援するため、足まわりのいい宿(ホテルオークラ新潟)にどっぷりと腰を据え、月末まで滞在した。
ここから連日真夏の太陽が照りつく県内の各球場を渡り歩き、毎試合声援を送り続けたのである。
越前浜物語
篠田・小林両選手の出身地は巻町・越前浜。その「越前浜誕生物語」は、朝倉弘文さん家系の歴史でもある。新潟県と同じ日本海を共有する福井県に、「越前町」「越前海岸」はあるが「越前浜」と呼ばれている地域はない。従って「越前浜」と「越前浜海水浴場」は越後の巻町だけに存在する越前となる。
越前浜誕生の歴史的な検証をするため、戦国時代までタイムスリップし、天下統一を夢見る武将達と足利将軍の室町幕府を探った。
「信長の野望」が越前浜誕生に結びつき、そこには文人・武将「朝倉義景」が深く関わり合っていた。

朝倉義景公と同時代の主要な戦国武将の生涯
戦国武将・朝倉義景
文人・武将 朝倉義景公
五代・100年余り続いている朝倉の地・一乗谷は、東西に山城を築き、川沿いの平坦な土地を巧みに利用し、京の乱れに耐え切れず逃げ延びた。寺院、文化人や商人も住み着いた小京都風の一大城下町となっていた。
城主・朝倉義景は、和歌・連歌や書を嗜む文武両道の才に長けた文人・武将として京の噂となり、流れ来る者を遮ることも無かった。越前国において一向一揆の乱で武将・義景は心労絶える時無いものの、 この一乗谷が戦場になった事はなく、名家・朝倉一門は泰然としていた。
一方、将軍家や守護大名身内の争いに端を発す応仁の乱(1467)以降、今日は将軍明日は知らずで、多くの公家達も安住の特権はなく下向した。

永禄10年、13代将軍・足利義輝の弟・覚慶(義昭)は名門朝倉家に懇願し、ここ義景の地に移り住み、一見平和な生活に享受していたかの振る舞いであった。しかしこの姿は「自分が将軍になるためだけの手段」でしかない。「武力・陣容に優れた朝倉家を上洛させ、自分の兄からその座を奪った憎き現将軍・14代を追い払い、この俺が15代将軍になる」これが足利義昭の本音であった。

足利の為を思い親身に世話をしている朝倉義景であったが、自分が京に上り天下統一を成し遂げる事より、越前を一揆騒動から沈静化させ、平和なる自国作りをすることに邁進していた。
この静かなる平和な地で、毎日歯痒い思いをしていた足利義昭の許へ密使が来た。送り主は織田信長である。「足利殿の力になりたい。急ぎ入京されたし」と。小躍りする義昭。「もうこのような所にいるのはご免」と京へ一目散。義景の恩、朝倉家の親切、義昭の心のどこにも謝意は見当たらず、ひたすら次期将軍を夢見ていた。
征夷大償軍・15代足利義昭の誤算
朝倉義景所用と伝わる兜
川越歴史博物館蔵
織田信長の力で漸く足利15代将軍となった義昭は、信長を副将軍にし自らの座を中枢権力の絶対的地位に押し上げようと手を尽くす。 だが信長の野望はこれになく、副将軍ごときの座はその心にない。
足利義昭が征夷大将軍となって2年が過ぎた1570年のことである。自分に断り無く行う数々の将軍の行為に、信長は激しく一喝した。「この私が天下に号令する。あなたは私の許しなく一切何もなさるな」。内心で怒り無言で聞く将軍。「織田信長を潰さねば」。この義昭の意を直ちに諸大名へ伝えさせた。己が最後の足利将軍となる事も知らず。

一乗谷の朝倉家にも密使が届く。危機感をつのらす信長。「俺の目を盗み何か企んでるな。義景らの越前・近江を先に攻めねば」。やがて姉川の戦いに始まり織田軍と朝倉・浅井軍との攻防が3年も続く。家康・秀吉・信玄・謙信ら歴史上に登場する多くの武将が群雄割拠し「いずれ俺が天下人」の時代である。今は信長の味方になっている家康の機動軍に朝倉勢は翻弄される。天正元年(1573)8月、遂に静かなる国、一乗谷は信長勢に焼討ちされ朝倉城主5代・朝倉義景の最期を迎える。
歴史はここで朝倉本家滅亡を正とするが、朝倉弘文氏はこれに異を唱える。
勝利の織田信長・正月の祝宴
織田信長所用とされる南蛮兜
川越歴史博物館蔵
信長は正月祝宴の肴として、義景そして共闘した近江・浅井長政とその子、万福丸の合わせて三首を金箔に塗り「われだけが天下統一をなす主ぞ」とばかりに諸大名の面前で、叛旗者への制裁を誇らしげに掲げて見せた。
褒賞を期待し功を自慢する家臣は、ここぞとばかりに誇らしげに叫んだ。「義景・自刃、そして一族焼死を確かにこの目で見届けたのであります」。この言葉を信用し「これで越前・朝倉義景家は完全に滅亡したか」と満願し信長はその家臣に酒を振舞った。殊更さように宿敵・義景陣営との戦いを、3年余りかけて滅亡に至らしめた事が信長にとって喜ばしい事であった。
「かの息子も確かに、この世にいないと申すのだな」信長は側近に念をおした。息子とは、義景37歳で生まれた小少将との子、跡継ぎ「愛王丸」である。
朝倉軍もはやこれまでとなった一乗谷合戦の終焉において、先の家臣が最期を見届けた義景の愛児のことである。だが、義景の愛児「愛王丸」は生きており、朝倉本家は途絶えていなかったとする「朝倉始末記」を紐解くと、越前浜誕生物語と繋がる史実がある。
義景の愛児・愛王丸
朝倉家に仕える家臣達は忠誠を誓い合い、やがて6代目を継承する義景の子「愛王丸」を敬った。愛王丸は彼らから武を手ほどきされ、祖母・光徳院の教えを良く聞き、京文化の習いにも飽きる様子がなかった。愛王丸さまをしっかりと守らねばとする家臣達に手厚く庇護されていたのである。

だが攻め来る織田軍、遂には市中全土を放火し、一乗谷は火の海となってしまった。一面が燃えさかる火の中で次々と命を落とす朝倉軍勢、やがて火の手は愛王丸の側まで及ぶ。もはやこれまでと義景の家臣、小川与三左衛門、手足ばたつかす子の体を抱きかかえ、「朝倉義景の実子、愛王丸であるぞ」と義景一族絶命の証拠とすべく、炎上する火中に投げ込んでしまった。夏とはいえとっぷりと日が陰り、敵陣には確かに視界不良ではあったが、粉塵まみえる戦の中で遭遇した。
正月の宴席で「朝倉義景の一族は滅亡いたし・・」と叫んだ信長の家臣は、この光景を見ていたのであった。果たして戦場で炎上する修羅場の最中に見たものとは・・・。

実は小脇に抱え、手足ばたつかせたのは、愛王丸の等身大に近い「からくりの浄瑠璃人形」であった。しかし諸説が唱えられているが定かでない。祖母と母子3人は今庄の敵陣へ連れられて行ったとする説もある。
信ずべき事実は一つ、「愛王丸は死んでいなかった」とする朝倉始末記の一説である。
越後への28人衆たちと愛王丸
越前国三里浜は近くの東尋坊と異なり、近郊地域の生活資源を供給する塩田が連なる広大な砂丘地が続く。ここはかつて義景が犬追い物興行を取り仕切った浜で、土地勘のある家臣の地でもある。先の戦いで生き延びた朝倉義景の家臣たちは、朝靄の中、舟を捜し求め、ここから越前を離れるつもりである。
総勢28人衆に混じってそこには「愛王丸」もいたが、遠くからでは小さくて誰かは判別がつかない。織田軍が来ない間に、ここ越前を離れねばと、ようやく手に入れた小舟で波静かな岸を離れ日本海を北上した。火中に身代わりの人形を抛りこんだ小川与三左衛門を始め、金子、斉藤らの家臣らもいる。

加賀の満月を拝み、潮任せの何時か経って、漸く大きな島を前方左に見ることが出来た。佐渡ケ島である。日本海の夕日は舟の右手に見える本土・越後を照らす。出来るものなら直ぐにでも上陸したい。
だが今少し北へ向かおう。幸いにもここからの舟は、佐渡海峡の流れにまかせ瞬く間に移動距離を伸ばす。たどり着いた海域からすでにあの越前は見えない。「陸へ上がろう」とある者の提案に「いや、あと少し待て」丁度鐘の音が聞こえて来た。開創の古い円福寺(928年)か照明寺(1049年)のある寺泊沖辺りであろうか。
「寺のある地は危険だ。もし、信長勢が手を廻して我らを探しているやも知れん」
かつて同士が京の寺へ逃げ込んだ2年前、延暦寺でのあの忌わしい信長の、寺焼き討ちの暴挙は忘れもしない。舟は更に北へ進み、山麓が海近くまでせり出しているあたりに辿り着いた。「よし、ここなら良かろう」。今の角田岬付近である。あたりはすっかり暗くなり人影はない。山の中腹まで一目散に登り、ここを当座の隠れ場所とした。

(角田山・CG制作・小川隆司氏)

「ここまでは信長も追っては来まい」角田山を鳥瞰すると、風を遮り下からの攻撃を防げる絶好の場所がある。ここで生き延びる決意を新たにし、収入源として鶏を飼い卵を売りながら愛王丸を守り続けた。角田山の中腹で、一同が住むに足りる場所を切り開き、蒲原の風雪に耐える小屋も建てての凌ぎの場となった。
異国の越後に身を移してはいるが、想いは越前国そして亡き主君・朝倉義景公である。やがて愛王丸も成長した頃、この山を下り平地を目指し土地を求めた。「この地を皆の終の棲家としよう」。探し得た土地に寺を建立し、ここで愛王丸は得度して永尊となった。
山号はかつての朝倉義景ゆかりの寺、川尻山・西光寺と同じ「川尻山」とし寺の名前を「西遊寺」とした。
初代西遊寺は愛王丸が住職となり父・義景を偲び、一乗谷で戦火に倒れた多くの霊を弔いながら生涯を送った。
これ以来十九代に及ぶ村の寺・西遊寺と越前浜の歴史が延々と続く。
越前浜誕生と川尻山西遊寺
川尻山西遊寺
(越前浜・本堂)
「この地こそ我らの里・越前の浜だ」と開墾の同士は心に秘めながらも、その名をまだ伏せ「新浜」と呼んでいた。やがて越前郷屋村(1623)と改称。越前浜村と呼称されたのはこれから250年余り後の明治に入ってからで、角田村に合併されるまで続く。越前浜村開祖の28人衆は西遊寺同様、村の人から慕われ、中でも小川、斉藤、金子姓が越前浜の御三家となり、村では「小川様」「斉藤様」などと必ず「様」づけで呼ばれるようになった。
金子屋敷の建つ道は「金子様の通り」となり、村の中央を縦貫する道路は御三家通りとも呼ばれた。420年以上経過した現在の越後・越前浜は所帯数243、総人口846人(2004年8月現在)となっており金子姓(16軒)、小川姓(11軒)、斉藤姓(11軒)が存在する。
奈良の御様は海軍経理学校出身/第26期生(卒業生20人)
朝倉弘文氏は西遊寺開基・愛王丸から数えて17代目となる父・住職朝倉聡明の三男としてここ越前浜・西遊寺で生まれ育った。愛王丸がそうであったように弘文氏も祖母(朝倉せい)の影響が大きく、朝倉家系の歴史変遷の一部始終を、何度も語り続けた祖母の話を良く聞き、これを昨日の事の如く思い出す。

西遊寺の現住職、十九代目となる朝倉長麿さんは、坂田毅氏(現・巻高後援会長)ら91名とともに昭和21年旧制巻中を卒業された同窓生である。
長男であればオチゴ様、長じて御当院様そして住職になれば御院主様と当人に対する呼び方が異なって行くが、次男以下の男子の呼び方は御様(オッサマ)となる。
朝倉さん自身は「弘文御様」、旧制巻中を卒業後は海軍経理学校を経て、軍人として海軍生活を送ったので「海軍の御様」と呼ばれた。
現在は「奈良の御様」と呼ばれているが、この先「甲子園の御様」と呼ばれても不思議ではない。
「愛王丸より与えられし定め」が我が運命と信ずる
朝倉家唯一人の職業軍人生活は1934年から終戦までの11年間続き、どの戦地においても砲火にさらされた。「九死に一生」なる言葉は、人の一生において一回の体験で確実にその経験者となり得るが、朝倉弘文氏は南方諸島、南支から中支、駆逐艦上、陸軍輸送船護衛中の艦上、どのシーンにおいても逃避してはいない。正に、九死体験を限りなく遭遇してはいるが、危うく一命をとりとめている。1943年7月29日のアリューシャン列島・キスカ島撤収作戦はその最たる体験でもある。
危機一髪の厳下においても、不思議なほど何かが身代わりとなり一生を得て、今日まで生き延びてこれたのは、己の運命であり、それが「人」「時」「自然」「虫」など万物のお陰であると信じて、常々感謝の念を忘れない。
60年経過した今、先立った仲間を偲び、2004年10月21日には来宮神社(熱海)でキスカ会を執り仕切る。
熱っぽく語る同窓生・朝倉弘文氏の話は止まる事なく続くのである。

    取材協力:朝倉労政企業診断事務所・川越歴史博物館(埼玉)
    参照記事: 歴史と人物(人物往来社1981年)
  (情景描写には一部主宰者の創作を加えております)

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