巻タリアンニュース 第23号


活躍するOB 1925年(大正14年)卒
元地検・検事、弁護士 真田康平さん

法曹界75年を語る

1907年4月(明治40年)、巻高(旧制・県立巻中学校)が正式に開校認可され翌5月1日(水曜)、32名の男子新入生による授業を開始、この日をもって巻高の創立記念日とした。以後節目の年となる度に、盛大なる記念行事が執り行われる。
真田康平氏は、巻高創立記念の年と同じ、明治40年12月、赤塚村で生まれた。
旧制巻中・第14期生として1925年(大正14年)、52名の同期生らと卒業し中央大学で法科を専攻、司法修習を終了したのは1931年(昭和6年)の春であった。新任地・神戸地検以来、徳島、甲府、満州、新潟、東京の各地を検事、弁護士としてその人生を法曹界一筋で貫き通し、97回目の誕生日を2004年12月、品川・御殿山の庭園を見下ろす高層マンションで迎えた。
2005年の今でも東京弁護士会に所属する現役弁護士で、その歩んで来た、とてつもなく長い歴史的証言は短時間ではとても聞き尽くす事は不可能であった。
越後赤塚村・法曹3兄弟の誕生
真田康平さんは23才の任官から今日まで75年以上の長き日を法曹界に携わり、過ぎ行く激動の時代を真剣に見つめている、東京弁護士会所属の弁護士である
(撮影・2004年12月)
真田家の子供達が「赤塚村・法曹3兄弟」として揃い踏みしたのは真田10人兄弟・2番目の祥二氏が弁護士、4番目となる康平氏が、検事に任官した時から始まる。高等文官司法試験に合格したのは故郷・赤塚村を離れ上京し、4年が経過した昭和3年の秋であった。その晴れある合格者が128人だった事は、今でも明瞭に憶えており、現在は自分のほかに、静岡、大阪に在住する1人づつが健在である。
司法修習試験合格は、1930年(昭和5年)の末である。昭和5年、この時期に、真田家長兄は、既に宇都宮地方裁判所で判事、二男は企業(第四銀行)弁護士として活躍中、そこへ地検検事として正義感に燃え、血気盛んな23才の康平氏が加わったのである。
赤塚村・真田家「法曹3兄弟」のしんがりとして登場した康平氏のスクープ記事で「学生時代は5種競技のチャンピオン、陸上競技の他、庭球・スキーなどを得意とするスポーツマンが法曹界に誕生」と地元の新聞で大きく取り扱っていた。「旧制・巻中学時代に虚弱だった自分を鍛える目的でスポーツに励み、そのお陰で社会へ出てからの、体力の基礎作りに大いに役立った」と振り返り、任官先での遭遇事を、静かに語ってくれた。
若者は法曹3者の世界をめざし法を学べ
初任官で最初に就いた神戸地方裁判所検事局を振り出しに徳島、甲府、東京などの各都市を息つく暇もなく貴重な経験を重ねながら、検事としての職務を身につけ、犯した罪と与える罰を正当に裁量する力量がついた。裁判所検事局は、今は検察庁となったが、真田氏にとって法曹界の仕事は、やり甲斐を感じ得るものであった。
警察の事件記録を基に、送検された容疑者の目を見つめ取調べ、拘留請求、起訴・不起訴の必要性を判断、捜査事項の信頼性検証のため体を張る。上司の決済こそ必要ではあるが、一般企業の同年齢者に比べ検察官は「自己の判断力に大きく責任が課せられるものだ」と、その職務の重要性を振り返る。
人は罪を犯したあと、現行犯逮捕者でさえ「自分は罪を犯していない」事を主張し、多くは否認し嘘をつく。真田氏は、送検された者の口から発する言葉を聞き、決められた期限内で検証・判断し人の運命を決めてきた。検察庁における検事の仕事は、組織上刑事部が犯罪(者)の捜査をし、証拠を捜し求め、訴訟までを受け持ち、これを公判部検事が受け継ぎ、事件の有罪をとるため、裁判官・弁護人と法廷等で意見し合う事である。冒頭陳述・論告・求刑など、ドラマチックに制作される映画シーンのようであるが、真田氏の当時は検事局刑事裁判における事件の起訴から公判までを、単独で一括して携わっていた。
ある時は送検された経済犯と、他方では、何日間も泣き続けるだけで自供しない女容疑者を、拘置期限直前、法に背いている事を悟らせ自白させた事もあった。このように表舞台では、検察官の仕事は根気を要しながらも派手に見えるが、そこまでの地味な捜査を重ねた結果があっての事である。「若者は法律を学び、法の許で闘い、検察官・弁護士・裁判官として活躍できる法曹界に身を置く選択肢を選べ」と真田氏は巻高の後輩に夢を託す。
新潟地検での活躍
新潟地裁検事局では経済係を担当した。土地柄「ヤミ米」「食管法違反」に関連する経済犯が多発していた。戦後の食糧不足下で、公平な食量供給を目指し制定された法律の存在はあったが、国中が社会情勢不安の中で極端に少ない供給量につけこみ、儲けを企む側と、何としても手に入れたいと求める側との利害で、法外の取引が横行していた。「鬼検事」と呼ばれ悪を容赦しない真田氏の存在は、闇取引ブローカー側から見ると最も恐れをなす人物であった。経済犯は摘発さえ免れれば儲けは濡れ手に泡である。しかし一旦摘発・検挙されると、押収・懲役・罰金が科せられる。ヤミ米事件では、西蒲原地方にも摘発された多くが住んでいた。
真田検事は、巻、味方、曽根などで睨みをきかす。だが自分の生まれ故郷赤塚での摘発には気が病んだ。無許可業者の食糧横流しをめぐる経済犯罪は昭和20年代多発し、警察・検事局は摘発・処理に忙殺される。
そんな折、真田検事に刑事事件が回ってきた。この「幽霊事件」は忘れる事ができない。
殺害被害者幽霊事件
昭和22年当時の検事・真田康平氏
きりっと太い眉の下に鋭いまなざしで地検「鬼検事」として恐れられていた
(昭和22年1月22日付夕刊紙より)
昭和22年夏、新潟警察署二階奥にある部屋では、殺人事件容疑者の取調べが続いているが、時間が経過するばかりで終わる気配がない。当時の新潟警察署は万代橋の袂にあり、逮捕されながらも容疑を否認する若い男は、見えすいた嘘を、二転三転と時間を稼ぎながら供述していた。
この事件は1946年(昭和21年)夏、新潟市内中心街の密室で発生した。
若い女性が何者かに殺害され、目撃者がなく、真犯人は今だ見つからず迷宮入り事件かとさえ思われていたのである。
新潟地方裁判所検事局は、事件記録を十分な時間をかけて検証しており、担当する真田検事は、物証と目の前の男との関連に対し立証済だったが被疑者の、矛盾するいかなる供述ひとつとて無視出来ない。
署内の取調べ室には、検事と警察署の刑事らの声が響き、時折、容疑者のふて腐ったような声が混ざる。室内では時間に関係なく、調べが続く。
ここで真実が解明されない限りは、凄惨な殺人事件の容疑者取調べを中止する訳にはいかない。朝から始まった取調べは、既に昼を過ぎ、夜になった。「何としても拘留期限の請求内で容疑事実を自白させよう」検事・真田康平氏はその時を待つ。いつしか深夜零時を経過していた。

当時は容疑者の取調べに際し、終了時間の制限がなく、深夜の署内でもこの部屋の明かりは消る事無く続いた。更に時が過ぎ、あたりがすっかり寝静まった午前2時頃の事である。容疑者の行動がおかしい。無表情のまま口を開いた。己の口から何かを呟く。誰かに促されたかの如く、犯行を自白し始めたのであった。
その表情は、自分の意思と関係なく、取調室入り口付あたりをじっと見つめながら唇を動かしていた。この直後に取調べ室廊下側の扉が、風圧を感じ揺れ動いた。だがその日は風もなく、奇妙な現象である。誰かが外からドア越しに、取調室の様子をじっと伺っているかの気配がする。
同室にいた警察官が不審に思い、廊下へ出て外をのぞいた。その直後の叫び声。「検事さん見てくれ」。あまりの動揺したかの警察官の声に、真田氏は廊下へ飛び出た。そして確かにはっきりと見た。「被害者だ」。「間違いなく殺害された被害者だ」。真田氏も思わず叫んでいた。そこには被害者の無表情な蒼白い顔が部屋の前にあった。気を取り直し、話しかけようとするとスウーと階段の方へ移動し、遂にその「うしろ姿」は消えてしまった。
「被害者が幽霊になって出て来たんだ」真田検事と警察官は顔を見合わせ、同時に同じ言葉を発していた。
真田康平検事の法廷論告
事件から60年以上経過した今でも、幽霊になって現れた若い被害者の「姿」をはっきりと覚えている。容疑者が自白し認めたその罪を、見届けたかったかの如く取調べ室前に現れ、そして消え去った霊姿。
当時の夕刊紙によると、迷宮入りかと思われた殺人事件は、事件発生一年後の深夜やっと解き明かされ、真犯人は紛れもなく、取調べ室で長い時間否認し続けていた男であった。
昭和22年11月の公判で「被告人の罪は軽からず、永く自らの反省をなし、今は亡き被害者の冥福を深く祈り、天地そして人に対して最大限にその罪を謝すべきである」。
新潟地方裁判所の法廷で、このように被告の責任量刑を意見した、真田検事の論告求刑の声が響いていた。
新潟地検・真田康平次席検事の決断
最高検察庁(東京・霞ヶ関)
真田氏は、新潟地方裁判所検事局・次席検事の地位で経済・刑事事件を指揮統率していた一方で、これから自からの進むべく道を思案していた。
最高検察庁は、検事総長をトップに最高検・次長検事,高検・検事長、地検・検事正そして地検次席検事と完璧なまでにラインが確立している。地方裁判所検事局の職責上、検事正は地検の最高ポジションである。次期地検の検事正に、真田氏をその地位にしようと中央の働きかけがあり主要都市任官地でのキャリアから検証しても当然の成り行きであった。
しかし定年迄この仕事を継続し、同じ道を歩み続ける事は本望ではない。最年少の検事として奉職して以来検察官を務め上げて来たが、これからの人生を大きく選択すべき時が来た。
「自分の最も愛する家族、即ち4人の子供達のこれから教育問題を最優先に考え暮らして行きたい」。小学生と幼稚園児の子供達は、毎日屈託なく無邪気にはしゃいでいる姿が微笑ましい。このあたりで異動の多い国家公務員をやめて、家族達と一緒に落ち着いた生活をしようと考えた。
「難事件を裁いてきた経験を生かし、今後は弁護依頼者側の立場で腰を据え、弁護士活動に生涯をつやそう」。1949年(昭和24年)、周囲の強い慰留を押し切り、20年間に及んだ検事生活に別れを告げた。
新潟県弁護士会の思惑
弁護士会は裁判所が管轄する地の弁護士を会員とする団体であり、弁護士法で細則が取り決められている。
日弁連設立直前の当時、弁護士になるには、司法修習の終了者なら、県弁護士会に所属を届け出るだけで原則的に、即日開業できた。だが通常は、事務所の看板を掲げても、すぐに顧客がつくことはなく、先輩弁護士の事務所で世話になりながら経験を積み、時間をかけて顧客を開拓する。
しかし真田氏には、地検検事として県下全体に睨みをきかせ続けていた長年の経験と実績があり、弁護士になったとしても仕事の依頼が来ない筈がない。
現在の新潟地方検察庁は、12の区検察庁で構成され、受け持ちの管轄を県内54ケ所の区域に細分し、地域密着の体制が確立されており、かつてのように、一人の検事が県下をくまなく所轄する事はない。
不足気味とされながらも、昨年度の司法試験合格者数は1400名を越え、女性合格者も300名近くいる。だが年間130名に満たない司法修習の終了者しかいなかった真田氏の時代では、検事になる者の数も少なく、ひとりの管轄範囲が広く、それだけに検事の名前は、必然的にその土地で有名になっていた。
この高名かつ辣腕検事、「新潟地方裁判所検事局・次席検事が弁護士に転身する」との噂は忽ち県内に広がった。「俺たちを震え上がらせて来たあの鬼検事が、我々の味方になったら、これは鬼に金棒だ」脛に傷を持つ政治家、実業家や商店経営者らは一斉に、顧問弁護士を真田氏に乗り換える算段さえし始めた。

新潟県弁護士会館・会議室では、臨時資格審査会が急きょ開かれ、同氏の入会について協議されていた。
「会長、私達は、仕事の領域を脅かす真田康平氏に弁護士資格を与える事に対し、断固として反対します」現在県下に140名余りの弁護士がいるが、当時の現役弁護士たちは、皆で結託し、その統一見解を主張した。
真田康平氏が同業者になる事で、新規客は元より、既存顧客迄も自分たちから離れようとしている事に危惧する県内の弁護士たちは、焦りを隠せない。最終結論は、元裁判官・新潟県弁護士会会長・M氏が下した。
「真田康平君の新潟県弁護士会入会申請を却下する」。会場にいた弁護士たちは全員が安堵の顔に変わった。
理不尽ではあったが、真田氏は後日この決定を文書で受け取った。忘れる事の出来ない1949年であった。
議員立法による「弁護士法」が同年9月に制定され、自治権を持つ「日本弁護士連合会」が生まれた年である。
東京弁護士会所属・真田康平弁護士・97歳
だが心乱す事無く、悠然と構えていた。「地方裁判所は新潟県だけにしかある訳でない」。
豊富な人脈を生かし、東京で法律事務所を開設することにした。東京は弁護士会が3団体あり、42歳の真田氏は1893年設立された最古・最大規模の弁護士団体「東京弁護士会」に所属した。爾来、弁護士として半世紀経過。ベテラン弁護士に付与される、70歳到達以降の年会費免除特典は、30年も前の話となった。
弁護士は自分で廃業しない限り、年齢制限なく活動できる。東京弁護士会所属の同窓生は今年も健在である。
      記事引用:夕刊新潟(1947年版他)


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