見渡せば 花ももみぢもなかりけり 浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮
藤原定歌が晩秋の風景を詠んだ歌であり、自らが選者となった新古今和歌集に収められている三夕の和歌の一つとしても有名である。
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人・藤原定家は、当時の貴族の暮らしぶりを克明に綴った漢文日記「明月記(めいげっき)」を残した。現在それは国宝に指定され、京都・冷泉(れいぜい)家の「御文庫」に保管されている。
明月記には、定家の日常生活の他に、その当時起きた数多くの天文現象が記されており、天文史料としても非常に大きな価値がある。そのなかには「赤気(せっき)」と記載されたものがあり、現代の科学的見地から、その天象は、大規模なオーロラ活動の様子の記録であったことが明らかになった。元久元年正月十九日(1204年2月21日)の記録である。その一節にはこう書き記されている。
「・・・白光赤光相交奇而尚可奇 可恐々々」
(白光赤光相交う 奇にしてなお奇とすべし 恐るべし、恐るべし)
当時(中世)の太陽活動の状況や地球磁場の変動、そして出現の時期や状況を調べてみると、現代科学が示すオーロラの物理的特性と矛盾なく合致した。この史料は、強烈な印象をもって肉眼に見える暗赤色のなかに、最盛期にははっきりした形で垂直な白っぽく見える縞模様(光の柱)が現れるといった大規模な低緯度オーロラの特徴をよく表わしている。またこの記録からは、当時の人々が、その色合いや様子からオーロラを恐ろしいものや不吉な前兆としてとらえていたこともはっきりした。定家が書き留めなければ、この世紀の大イベントも、そのまま歴史のなかに埋もれてしまっただろう。
今から800年前、日本の京都において、想像を絶するような大オーロラが出現したという事実は、将来を予測する上でも重要である。ただ単に驚嘆するだけでなく、「地球磁気圏」という最も身近な宇宙空間の、さらなる解明が望まれる。
「日本における低緯度オーロラの記録について」(新潟県立自然科学館)
http://www.lalanet.gr.jp/nsm/aurora.html |