巻タリアンニュース 第11号
活躍するOB 大正13年(1924年)卒
水墨南画師 安沢 隆雄さん

東亜同文書院大学(上海)
 25期生の頃

 大正末期の中国・上海は、島国日本にとって、最も重要なる貿易顧客の玄関口であった。日本との商取引がピークの頃、安沢青年は,、東亜同文書院への入学試験に備えながら、郷里・赤塚小学校で代用教員をしていた。第13回生として旧制巻中学を卒業した年の秋である。東亜同文書院は、流行・文化発信の地、上海において1901年に開学した、憧れの海外学舎であり、国際貿易の中心地での高等教育機関でもあった。大手総合商社の経営陣ら、多数の経済人を輩出。旧制巻中からは、2回生の加藤隆範、山本久一郎の両氏が県から派遣され、既に社会で活躍していた。海軍にいる兄達の大陸で活躍する勇壮な写真を見たり、恩師・原先生が激奨する、東亜同文書院の話、自分にとって是が非でも、かの大都市での生活・勉学・見聞を夢で終わらせたくなかった。
学生時代は柔道3段
当時の安沢隆雄さん

 合格の報を受けた120人の新入生の一人として、神戸港から上海へ向かった。通常なら、県単位の派遣で、官費留学扱いとなるのだが、折りしも新潟県は、築港整備で予算がない。仕方なく自費留学とする。形式上は、新潟県派遣生。幸いにも、毎月の学費55円也は、商店経営をしている、兄の世話になる。「先生の月給は37円だ」、良く聞かされた相場であった。

 全学が、同じ寄宿舎で寝食を共にするのが、学校の掟である。留年も多い。ここで国際企業人となる素養を磨き、語学を身につけ、仲間達と出会った。東亜同文書院は、外地学校故、在校生と現地在住OB交流が特別盛んである。 時には、先輩の家で、ご馳走になる事もあり、やがては自分も後輩を振舞う。
 しかし、東亜同文書院大学の校舎は、昭和12年(1937)上海事変によって、無残にも焼失した。この当時の安沢氏は、漢口で貿易商社マンとして、第一線で活躍していたが、学校に保管していた自分達の写真や、記念とすべき物品は、灰と化した。想い出は、己の身体に宿っているから、悲惨ではないと語るが。正当性の是非に関わらず、手段が戦争・抗争に依存する場合は、いつの世も多くの破壊を算出する。
  昭和20年、政府及びGHQの令により、解散・廃校となった。現在は、愛知大学としてその志を日本に残す。46期を最後に巣立った同窓生は5000人。事務局「霞山会」によると、現存のOBは約2割と推測される。同窓の集いに毎回欠かさず参加する、最長老・安沢隆雄氏の姿は、いつも輝きに満ちている。

旧制巻中学の様子を超人的記憶力で再現
 安沢氏の記憶力を例えると、入学当日から卒業までの5年間、全日数を、覚えていると言っても過言でない。巻中に入学した当時は、松木徳聚、やがて、矢浪淑次郎、そして藤田良平と一気に在学当時の校長名が出る。矢浪校長は、前任地が新潟の女学校だったので、先入観もあり、訓辞をけげんな念で聞いた。松木校長の厳粛振りは、新入学生にとって、非常に怖い存在で、直立不動で話を聞いていた事を想いだす。
 自身は、柔道部で鍛え、越後赤塚から汽車での通学、後に自転車通学に変え、冬季には寄宿舎で過ごした。関東大震災の1923年9月1日は、始業式だったので、半ドンで、学校からの帰路、愛用の自転車をまたいだ途端、校舎前のポプラ並木がユッサユッサと揺れた事を、まるで昨日の如くに憶えているのである。当時の中学は、5年制ながら、4年、5年は受験準備に忙しく、好きな柔道も、実はのんびりと活動が出来ず、全員が真剣に、これから進むべき道、専攻すべき道を考えていたようである。
 校内は、1組、2組と呼ぶ代わりに、「仁・義・忠・孝」、この4文字にクラスを分け、生徒を集めようと学校は、懸命だったと、当時を振り返る。安沢氏の頃は、まだ、仁組と義組の2クラスしかなかった。大正13年卒業生として、同期の57名も、今では、関根五郎氏(小金井市在住)と安沢氏の2人だけとなった。

平成15年度書壇院展・出展作品制作中
安沢氏は書壇院展の審査員であるが、自らも出品者として、年一回の大作に取り組んでいる。自らの道場から、書壇院展に出品させる弟子は10名いる。自宅アトリエには、使いこんだ墨絵具、絵筆、彩色具等が各々の役割を果たし、時には脚立に乗りながらの作業を、何時間も繰り返す。
この作品は、今年度の書壇院展に出品予定で、目下制作作業中である。これから更なる筆を加え、12月迄に完成する。(写真は、原画の一部) 漢詩「座して足を水の流れに注ぎ、雄大なる河の胎動を楽しむ様」を墨絵で表現したこの作品は、一昨年、書壇院展(東京都美術館)に出品。2メートル近い大作の一部を拡大すると、作者の意図がより鮮明になる。(写真右が原画である)
雅号・梨雪

巻高校・創立100周年記念式典には、100歳で出席予定

 明治39年、梅雨も終りの頃、西蒲原郡の郡議員達は、一様に笑顔で議場に向かっていた。永年の懸案であった、中学開校認可が、県から伝えられて来たのである。この日の議題には、新校舎建設の最終確認も含まれていた。校舎建設用地は、郡からの寄付が決まり、明日を担う若者への投資には拒む理由は見当たらない。かくして旧制巻中学校は、1907年(明治40年)4月、県立中学校として、前途洋々の念で誕生した。安沢隆雄氏誕生翌年の春であった。
 3年後となった、巻高校の100周年を、安沢氏は楽しみにしている。自身も丁度100歳になる年である。平成13年5月に開催された、東亜同文書院大学100周年記念祝典には、95歳で名古屋へ1番乗りしている。恩義・忠誠心が人一倍厚く、恩師・先輩の墓参には積極的に出掛け、且つ、後輩の面倒には労を惜しまない。
「巻高等学校のこれからを、この目で確かめねば」と同窓の大先輩は、その熱い思いを語る。
「2006年10月が待遠しい」。4時間近いインタビューテープは、張りのある師の声をしっかりと収録した。

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