巻タリアンニュース 第16号
活躍するOB 1998年(平成11年度)卒業
流通経済大学ラグビー部副将 徳永伸太郎さん

「巻高に入学したらラグビーをやってみよう」坂井輪中学(寺尾)の陸上部でグラウンドを駆け巡っていた伸太郎少年(徳永伸太郎氏=98年卒)は、時折りマスコミに登場する「巻高校ラグビー部」の活躍に気をとめるようになっていた。
高校スポーツは、春高バレー、国立そして花園と、野球の甲子園以外でも、マスコミ機関が強力に後押しする全国大会にからんだ話題を提供する学校が、いつも華やかにスポットを浴びる。
巻高ラグビー部も花園実績校として、間違いなく少年達憧れの有名高となっていた。
走る事が人一倍好きだった。楕円形のボールを持ってゴールめがけて走り抜くゲームかと何となくラグビーを判ったのが中学を卒業の頃であったが、自分にとっては遠い存在であった。

巻高ラグビー監督との出会い
入学当時、180センチを越えていた伸太郎がラグビー部に入り名監督(山田栄一先生)の目に留まったのは、時折り見せるバネのある瞬発力と持久力であった
激しい練習をこなしていても、グラウンドではパワーダウンがないことも見過ごさなかった。
「高校生は、勉学が第一で、規律正しい毎日を送ってこそ真のスポーツマンである」と日常生活には厳しい先生であったが、生徒の資質を見抜く集中眼は偉才を持っていた。
この年の巻高ラグビー部に在籍する上級生達のレベルは高く、各中学から入部してくれた新入生達も、自分の体力だけは自信ある者が多く、ラグビーの素質を伸ばす絶好の機会であった。
伸太郎が一年生の1995年、巻高は花園で1回戦を勝ち抜き2回戦(伏見工業戦)で善戦した。
自分が試合出場するにはまだ無理ではあったが、全国大会で先輩達の活躍を目の前にした大きな感激が、これまで以上にラグビーを虜にしてしまった。
伸太郎2年生・高校決勝戦は新潟工業に敗れ、更に3年生となった年には北越高校が花園へ進んだ。
ラグビーはチームプレーである。けが人が続出の2,3年生当時は花園を諦めざるを得なかった。

全国大会予選(新潟工業戦=高校2年) 全国大会予選(新潟工業戦=高校3年)

入学当時のグラウンドで「こいつは、いいラガーになるな」山田栄一先生のこの予感は的中した。
タックルに来る相手校の体制が整うまでには快速で敵陣に入り込み、猛チャージに怯まず、長い脚と腕力のある両腕で突破前進する姿は、高校生の域を越えていた。
伸太郎は格闘技が好きで、ラグビー部がなかったら、ボクシングか柔道をやろうとも思っていた。
「ラグビーとはこんなものだ。パワー・破壊力では誰にも負けた事が無い」と本気に思い、これをラグビー名門高OBが集まる大学ラグビーで通用しない屈辱を味わうまで持ち続け、巻高を卒業した。

流通通経済大学(茨城県龍ヶ崎)
1999年4月新ラグビー生活がスタート
関東大学リーグ戦グループは、大学選手権覇者関東学院大学を筆頭に 1部から6部まで構成され、登録大学数は46校である。
流通通経済大学ラグビー部・第36期生として入部した23名の中に伸太郎がいた。ここで4年間全国のラグビー仲間との部寮生活が始まった。
前年にリーグ戦1部2位の実績を積み上げた先輩が多く環境は実に良い。

グラウンドでは闘魂集団の4年生
ファーストジャージで記念撮影
強豪高出身者と自分との違い
自信を待っての入部であった。だが一緒に練習する仲間は、その上のレベルにあった。基本の差が明瞭に現れ、これ迄の自分に愕然とした。
持ち前のパワーで試合には出ても、自陣について走るのが辛い。
基本的にしっかりと訓練を積んだ者は、動きの中で次の展開を見抜いてしまう。無駄が無いから効率が良いのである。初めて体験する大きな挫折を克服するには、諦める事無く絶え間ざる努力しかなかった。
こんな時は、部寮に帰って見る先輩達のビデオで繰り返し研究し、筋力トレ、解説書読破、あらゆる基本を獰猛に吸収した初年度となった。

U21日本代表候補メンバー
大学3年次に経験したU21代表候補メンバーになれた事は忘れがたい。
2002年6月、初開催となるU21国際マッチは、ヨハネスブルグにおいて12カ国で争われ、日本は9位と健闘。代表候補としてCTBは元U19代表の陣川真也(明治)、守屋篤(立命館)と自分の3人であった。
ここでの経験は、後にリーグ戦へ戻りWTBとして、先発フル出場する自信をつけてくれた。

伸太郎大学生活最後の公式試合・2トライで終幕ー博多ー
2003年12月13日、伸太郎にとって大学ラグビー最終ラウンド・「全国大学選手権」が始まった。リーグ戦3位の自陣は闘志溢れる出場である。第一戦だけはトーナメント方式で負けると次が無い。対戦相手となった対抗戦グループ4位の明治大学とは、昨秋の交流試合で勝利している。
正午キックオフ。直後から明治バックス陣の動きに異常を感じる。「何かがおかしい。敏感すぎる」。先制トライは仲間のプロップ中井が決めてくれた。北海道の出身の元気者。開始5分はいいパンチだ。前半20分・点差は1トライ圏内で両者互角の展開。僅かではあっが流経大リード。だがその1分過ぎ相手ロックがトライ。ゴールも決まりこれがこの試合のターニングポイントとなった。
相手TBあたりが過敏だと感じていた伸太郎の勘は、明大の「勝利するための執念・戦術」であった。明大の攻撃パターン「一団の塊をパワーとし、前へ前へと押しのけながら得点に導く」。この戦法が永年他大学を圧倒していた。この日は「微少間隙に照準を合わせ俊足で突破する」。これは流経大が最も得意とする攻撃スタイルだ。真似されたか、敵陣が徹底馳駆しているのではないか。なおも4連続トライ。ゴールも決められハーフタイムでは12対40と逆転されていた。「昨年秋にはこれくらいの点差を跳ね除け俺達は勝っている」自陣はこれを忘れてはいない。
後半、ウィング伸太郎の武器である華麗なる快速フットワークが戦闘パワー全開しうなりを上げる。しかし中盤23分、相手ロックに逆転トライを許しゴールも決められ、自陣の様相豹変する。 防御タガが破壊した。26分伸太郎トライ、点差60もある.35分伸太郎この日2度目のトライ。
29対85.終わってみると明大14トライ、流経大6トライ、試合結果は90対36。完敗となった。
学生ラグビー生活の終焉
試合後呆然となった伸太郎ら出場した4年生部員7名はこの日からの何日かはラグビー空白日を過ごしていた。仲間の誰もボールにさわらず、大学ラグビーの炎はこれで終わったのだといい聞かせようとしていた。確かに大学4年間のラグビー生活はこれで卒業である。今年度自軍3位、WTB先発フル出場でのリーグ戦、関東学院大、法政大戦で流した汗は跡形無く消滅した。
一方その頃、社会人チームが伸太郎のラグビー人生に炎を生き返すトップニュースを決定していた。

伸太郎・日本IBMへ入社決定・2004年度トップリーグで活躍

日本IBMラグビーチームの決断
社会人ラグビーチームは新戦力として伸太郎を高く評価していた。
最上級生となり副将になった彼のもとには、各社からオファーが寄せられていたが、故郷新潟の企業に入る思惑もあり、自らの決断をしかねていた。
しかし日本IBMラグビーチームからの誘いが入った時は、これまでに無い衝撃と挑戦意欲が身体中を駆け巡った。
大学の先輩も既にここで活躍しており練習試合の経験もある。
チームの合言葉は、「2006年度のリーグ優勝」だと聞いた。
トップリーグへ昇格したばかりという新鮮さが嬉しい。
かくして伸太郎は社会人チーム最高峰、トップリーグのラガーメンとして前途洋々で次なるステップを歩み出すこととなった。

ジャパンラグビーの大改革2003年 ラグビートップリーグ誕生
サッカーとラグビー。源流は同じでも、日本における観戦人口総数は、両者に天地の差がある。
平成のラグビー人気を危惧し、改革の嵐が2003年に断行されていた。
重厚長大全盛時代での企業チームは、高名なスターを有し、学生も社会人と応戦出来るほど強かった。
プロゴルフのテレビ中継が終了する頃の季節は、日本中がラグビーの話題で盛り上がっていた。
「強いチーム同士が激闘を演ずる機会を多く作り、観客数を増やしラグビー人気を呼び戻す」この理論で誕生したのが社会人ラグビー「ジャパンラグビートップリーグ」通称トップリーグである。
地域振興貢献・トッププレーヤーの強化・人気挽回これらの理念は観客動員数に依存する。
日本の強豪12チームが顔を揃えたトップリーグは、2003年9月に開幕試合をスタートしリーグ戦試合を全国で展開し、神戸製鋼コベルコスティーラーズが初代王者となったばかりである。
2004年度ジャパントップリーグ12チームの顔ぶれ
改革断行2期目を迎える2004年春、トップリーグとして新12チームの顔ぶれが決まった。
12チームで総当り戦をし、全試合終了後翌年迄継続維持できるのは、上位8位以内である。
下位4チームは自動降格の11・12位、関東・関西・九州の各地域リーグ覇者との入れ替戦で決まる9・10位など、存続条項は協会規則第83条にて細則が定められている。
一方リーグ上位8チームは全試合終了後トーナメント方式のマイクロソフトカップで戦う。
トーナメント試合は、スターぞろいのトップリーグ王者といえど、初戦敗退があり得るから面白い。
更に選手達はシーズンのフィナーレ「ラグビー日本選手権」と多忙だが、ファンは試合が待ち遠しい。
テレビ中継の解説陣も充実し、大学チームが16年ぶりに社会人チームに勝利するなどの話題が続く。

神戸製鋼コベルコスティーラーズ
ヤマハ発動機(ジュビロ)
ワールドファイティングブル
三洋電機ワイルドナイツ
リコーブラックラムズ
トヨタ自動車
東芝府中ブレイブルーパス
サントリーサンゴリアス
NECグリーンロケッツ
クボタスピアーズ
近鉄ライナーズ
日本IBM
 

日本IBMは2003年度イースト10で1位(全勝)、2004年度の新構成でトヨタ自動車と共に、ジャパントップリーグへの昇格となった。
今年度の第一回マイクロソフト杯でNECが初代王者となり、2004年度には日本IBMがリーグ参入。
何やらコンピュータソフト業界の大会かと思わせかねない名称・チーム名であるが昭和から平成へとここでも時代は変遷して行く。
巻高ラグビーOBがトップリーグのメンバーとして、186センチ86キロの鍛え上げた体とパワー溢れる豪足で、栄光のピッチを疾走する姿を想像しただけでジーンとくる。走れ伸太郎。


「巻タリアンニュース」は巻高校OB生をつなぐネットワーク新聞です。
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送付先:東京・蒲田郵便局私書箱62号(主宰)橋本寛二
メール:makitalian@yahoo.co.jp
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