巻タリアンニュース 第18号


活躍するOB 1962年(昭和37年度)卒業
オリンピック連続3大会出場 東海大学教授 宇佐美彰朗さん
〜その1〜

メキシコ・ミュンヘン・モントリオールの3大会五輪は巻高同窓生が連続出場した記念とすべき大会でもある。
マラソン歴代世界3位の記録を樹立した「世界のウサミ」は11回の優勝経験がその実力を実証する。
今、大学で「スポーツレジャーマネジメント学」に取り組み社会で「スポーツボランティア」の普及に奔走する。

東海大学体育学部教授
宇佐美彰朗氏

校内ロードレース・3年目に課せられた課題

ロードレースは1年生、続いて2年生と学年順にスタートした。
「おい、前を走る2学年の集団全部を抜いてトップになるんだぞ」陸上部の神保昴先生は最上級生になった宇佐美にテーマを与えた。
コースは角田山の麓を往復する7キロあまり。1、2年時代連続1位で走り抜いてきたとは言えこの距離で全部抜き去るのは簡単ではない。しかも3年の最後列からのスタートである。
陸上部員達は全員がレース当番で参加していないが、足の速いバレーやバスケット、ラグビー部の連中もいる。自転車で見張っている神保先生。スタートした。遥か前方に何百人かウジャウジャいるようだ。
各駅停車を追い越す快速列車の如く、数え切れないほどの群集に追いつき、追い越しまくった。
遂には前に誰も見えなくなり、先生達の自転車が並走するばかりであった。神保先生は日焼けした顔でトップで入った宇佐美に「おい、これで3年間1等賞だ。夏には陸上部の合宿に参加するんだな」。自分の所属はテニス部で主将。夏だけならいいかと陸上競技部の夏合宿に加わり、中・長距離の要員にされた。しかし怪我もあって各種の大会には出場する機会はなかったので、陸上競技の公式記録を一切持たないで巻高校を卒業した。「その運動能力を格納庫に保管中」とする表現が妥当であろう。

日本大学入学当時マラソンの意識全く持たず

「大学を卒業したらサラリーマンになろう」ごく平凡な考えで経済学部を選んだ。
教養校舎(静岡県三島市)の敷地は広大でキャンパスの名に相応しい学棟・グランド、プール、体育館が有り、この恵まれた環境でのんびりとサークル活動を送るのもいいなと思った。
中学(吉田)でバスケット、高校で軟式庭球をやっていたから大学では何か別なスポーツでもやって見ようと気軽な発想で陸上同好会の説明会を覗き、そのサークルに入る事にした。
走る事は嫌いでない。自分なりに自信も持っていた。高校での陸上経験はと尋ねられたら「ロードレースをやってました」と答えようと心の準備もしていた。

陸上同好会で自己紹介をする日が来た。皆は得意そうに自分の経歴を話す。
僕は高2の時、800Mを1分49秒21で走りインターハイに入賞しました。
1500Mを3分50秒台で走っていました。3段飛びで県大会に優勝などなど。
「こりゃヤバイ。ここのサークル連中は高校時代に陸上の部活経験者ばかりだ」俺は競技としての陸上経験が無く、語る種目と公式記録を持ち合わせていない。
自分の番になった「新潟県の巻高校出身の宇佐美です。高校では・・・え〜と、軟式テニスをやってました」ここでロードレースを取り消した。これが大学へ入り1年次で陸上と出会った最初の遭遇であった。

日本大学陸上競技部・釜本文男監督「巻高」の文字を見て・・

やがて教養課程の1年次が終わり、都会の神田(千代田区)校舎での生活となった。
さてどの部に入るか思案中だった頃、同好会仲間に陸上部へ入るから一緒にやろうと誘われマネジャーの面接を受けた。ここは本部の体育会陸上競技部である。華麗なる実績を持つ兵ぞろいで溢れる。入部申し込み書の競技歴記入欄を白紙にした。マネジャーは怪訝な様子でそれを受け取った。監督に見せたらしい。
「記録なし・・か」。唯、”巻高等学校卒業”の文字を見つめ、感慨げな表情をした。後日監督の面接となった。監督・釜本文男氏(元メルボルンオリンピック大会/ハンマー投げ出場)にとって「巻」の名前が懐かしい。

旧制巻中出身アスリート・大先輩の功績ここに伝わる

「君は巻高卒なんだね。星野秀松さんという君の大先輩がいるんだ。彼は文武に優れ投擲の名選手だった。残念ながら戦争で帰らぬ人となったが、工学部に在籍しながら僕と一緒に頑張った。大先輩に負けないで頑張ってほしい」。宇佐美は神妙な面持ちで釜本監督の話を聞き、入部許可を得た。
但し陸上競技部の正式なバッチは渡されず、テスト生としての許可証であった。

旧制中学5年当時の
星野秀松さん
星野秀松さんは日本大学で当時の釜本文雄氏とハンマー投げで活躍した。
旧制巻中学を1936年(昭和11年)卒業。(吉田出身)
当時の旧制中学に、陸上競技界で2人のスーパースターがいた。
いずれもフィールド競技を得意とした共通点があった。そのひとりがハンマー投げの星野秀松さんであった。
もう一人のスター、砲丸の藤原登さん(巻出身)と部門優勝を繰り返し全国大会で巻の陸上部フィールド競技は圧倒的な強さを示した。

入部許可を得たものの、陸上競技部としての厳しい練習は毎日続く。

大学2年・箱根駅伝4区を走る
梅雨も終わりの頃である。もうこんな部活をやめて、夏休みは新潟の実家でのんびりしよう。
想像を絶する練習メニューは体を壊す。グランドを20周、これが唯のウォーミングアップ。200人近い部員たちは平気でこなしその後本練習で1500Mを20本、5000Mを10セット、かつて無い経験である。
一週間練習を休んだ。さすが気になり8日目で練習に参加した。メニューは前と全く変わらない。
「おい、監督が呼んでるぞ、とマネジャーが声をかけ、捻挫で動けなかったものですから、と答えて・・」と言い訳を含んだシナリオまで考えながらの練習であった。練習終了。いつもの様子と変わりない。お咎めもない。
やがてシャワーを浴び電車で帰宅した。「やれやれ、説教も言われず、良かった。明日はどうしょうかな」そんな事を考えながら京王線に乗り窓の外を眺めていた。当時の桜浄水駅付近はまだ緑も多くのどかな風景であった。電車は明大前を過ぎやがて下車駅の笹塚で降りようとした時である。

1963年7月陸上競技人生開眼の瞬間

「誰にもなにも言われなかった・・・」「1週間も休んだのに、監督にも何も言われなかったのだ」
日大陸上競技部。自薦、他薦で入学した全国の高校界で名を成したトップが集う。
「あっ、そうか俺に何も言わないということは、お前なんかどうでもいい。眼中にない」という事なんだ。俺の存在は完全に無視されていたのか。

「格納庫の扉・只今開錠」

この事に気づいた宇佐美に闘争心が湧き出した。達成目標がなかった自分にデータもない。ひたすら逃避しか考えていなかった自分に気がついたのである。「明日からは午後の授業を来年廻しにしてでも練習に励もう」。
次の日からはいつもと同じ練習を続けた。皆と一緒に厳しいメニューをこなした。
以前の自分と違う事が1つだけある。その日の達成目標を作った事だ。「1周でも早く、そして一汗多く」と。

東京・箱根間往復大学駅伝選考レース

秋になり箱根駅伝の合宿メンバーを決める日が来た。グランド50周を3回繰り替えし、成績のいい14人が合宿に行ける。ファーストトライアルでビリ。セカンドでブービーメーカー。疲れた。ファイナルラウンド。
「さあ、これで終わりだ」そう思うと嬉しくなった。スタートした。どうせこれで終わりだ、初めから飛ばそう。
もう1時間近くも先輩にぴったりとくっついている。まだまだ走れる。突然、先頭集団に向かってその先輩がスピードを上げた。自分も追走した。「どうせこれで終わりだ」。又同じ事を思った。ついにゴール。7位かな。
後で聞くと相当なタイムだったらしい。合宿メンバーは14人しか選ばれない。やがて監督が発表した。
「1,2,3・・・13,14」遂に自分の名前は無かった。「宇佐美は15番目だ」。意外な言葉を耳にした。
「あいつには合宿所で食事当番をさせよう」「彼の経費は俺が持つ」あとで監督が払ったらしい。
藤沢合宿ロード実践開始。強敵仲間と一斉スタート。ゴールしたら2番目。区間想定トライアルでも勝利。
「ウサミは実力がある」皆の認めるところとなり、食事当番には出る幕が無かった。
結局2年生で平塚〜小田原間の4区を走り、区間3位の記録を出し日本大学は準優勝、中大5連覇となった。
続く3年では復路、権太坂を下る鶴見迄の9区を区間賞でアンカー高口徹へタスキを渡し、日大総合優勝。
4年生では花の2区に抜擢され区間2位となり、総合では順天堂大学が初優勝し日大は準優勝であった。

その2へ続く・・・

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