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活躍するOB 1973年(昭和48年)卒 墨彩画家・藤井克之さん |
大沢和紙との出会いが画家としての人生を変えた 画家=油絵・抽象画を本流とする概念に疑問を持つようになったのは 県立・堀之内高校の美術教師となってから数年を経過した頃であった。 情熱をかけてきた絵画人生に、何故か物足りなさを感じるようになり探し求めている愉しい絵の世界が、何処かで必ず存在している筈だと確信しながらも、目に見えない厚いバリアを打ち破ることが出来ず、現状から抜け出せない日が続いていた。 これまで培い、積み上げてきた技法、素材、そして画材を見直そうと思案していたそんなある日、教え子の家族が紙漉きをしていると聞き意を決し頼み込んだ。「君のお父さんに会わせてくれないか」。 幸いにも「見学されるならどうぞ」となり、仕事場を見る事が出来た。 越後和紙は加茂、小国、松之山など中越地方や近郊で多く生産される。教え子の父、遠藤達雄氏は湯之谷村で大沢和紙の制作に携わっていた。しかし当時の和紙業界は商業的需要が少なく、他分野での本業を持った者の副業程度で供給は十分であった。 「仲間は残念ながらこの紙漉きを止めてしまい、私も和紙作りをこの辺で終わりにしょうと思いまして」湯之谷での紙作り職人最後となった遠藤氏は、丹念に作り終えたばかりの和紙を見せながら話す。 藤井先生には遠藤職人の言葉は耳に入らなかった。乾燥板から剥されたばかりの極上の大沢和紙と対面し、忽ちその虜になってしまい「この紙なら、これまで洋画で蓄えた自分の技術を、和の世界で、立派に生かせる」藤井克之氏の眼光は、一葉の楮和紙に吸い付き、温もりのある柔和な感触を手でゆっくりと探りながら 「この紙が一番喜ぶ墨を使い、そこに色を添えてみよう」と呟いた。すでに頭の中では構図が決まっていた。 |
地元の原風景を墨で描きその素晴らしさを表現したい | |||||
「和紙作りをもう止めたい」と言っていた遠藤職人に、湯之谷の紙漉きだけは絶やさないで欲しいと懇願し、自らの絵を大沢和紙に切り替え、墨を用い、画家としての人生を変えたのは1980年代初めの頃である。
雪や谷水の温度を利用して完成させた湯之谷和紙との衝撃的な出会いで、抽象から具象へとモチーフを変え「自分で描いた絵を美術館で飾る為に妥協するのではなく、美術館に行った事のないその土地の人のために地元の絵を描こう」と決め制作に励んだ。結果的には、後に美術館でも高い評価を得る事となっているが。 越後・魚沼の素晴らしい大自然を抱くその良さを改めて認識してもらい、暮らしを誇りに思ってもらおうと地元の景色を墨で描きそこに顔彩を加えた。絵筆を一気に走らすと和紙が生きたように十分応えてくれた。 出来上がった作品は、いつも目にし、匂いがする程懐かしく思っている原風景である。そこで生活している者なら、誰もが関心を示すテーマを意識して描いた展覧会場には、年齢を問わず大勢が見に来てくれて、絵を見ながら昔を懐かしく想い、深く喜んでくれた顔が忘れられない。 「絵は人の心を揺り動かす」藤井克之氏が真の絵を描く楽しさを発見し、油絵の世界と快別した瞬間であった。「絵描き職人になったのかい」と、芸術家を気取る油絵仲間達の言葉にも、全く気にはならなかった。
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大和デパート・美術部と考案した「墨彩画」 | ||
自ら売り込んだ覚えは全く無いが、評判になっている自分を意識し始める。 新潟市の大和デパート・美術部のスタッフから連絡が入った。「先生の墨を用いた絵をテーマに、個展を企画させて頂けませんか」。 このデパートでは時折話題の個展が開催され、企画展の定評は以前から知っていた。打ち合わせに合意し「藤井克之の絵」を何と呼称するかを決める段階になった。 当時、「墨絵」・「水墨」が一般的であったが、和紙に墨と顔彩で描かれた洋画風な藤井氏のジャンルに一致する名称がない。「ボクサイガ」にしましょう。こうして「墨彩画」なる用語が誕生したのである。 今では世間に認められ流行の言葉であるが、34歳・藤井克之氏がその草分けとなった。 かくて「藤井克之・墨彩画展」は盛況に開催され、墨彩画の文字が新聞の広告欄に大きく載る事となりさすが新潟では中心街のデパートである。美術愛好家や、好奇心でショッピングついでに立ち寄る者など実に多くが来場し、物珍しさも手伝い大盛況となった。美術スタッフも満足してくれて何よりであった。 |
県立高校の美術教師から墨彩画家へ | ||
画家として今の評価を、この先一生継続して行く難しさは、誰よりも自分が一番熟知しており、家族に不安を与える事は当然避けなければならなかった。しかしながら、今更後戻りする事もできない。 様々な葛藤を乗り越えて、高校の教師を退職したのは42歳のときであった。 「美術部員大募集」と書いて張り出した高校の廊下が、今となっては懐かしく、入部してきた、湯之谷で最後となった和紙職人の娘さんとの、運命的出会いもきっと神が導いてくれたものであろうと振り返る。 |
イスラエルの風景を墨彩画で表現する | ||||
クリスチャンでもある妻、同窓生、旧姓・氏田久美子さん(昭和50年卒・分水町出身)の影響もあり、キリスト教に興味を惹かれ、自らも同じ道を歩み始める事となり、聖地イスラエル巡礼ツアーにも参加し
現地で洗礼を受けた。イスラエルで生まれた異国文化であるが、日本人の感性と非常に近似したものがあり、墨彩画として、聖書関連小説での挿絵、教会関係の個展に違和感なく藤井画風で描き発表した。 一昨年「日本・イスラエル国交樹立40周年・記念パーティ」の際には、大使館主催による個展で披露した、大作「なげきの壁」などエルサレムやピアドロローサを中心に描いた、墨彩画・イスラエルの風景は政財界や芸能界からの来賓客をはじめ、多くの列席者達を魅了した。
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墨彩画発展の功労者・片岡鶴太郎氏 | ||||||||||||
富山・大和デパートで個展開催の時、滞在していたホテルの社長さんが、ロケでこの地に宿泊中の片岡氏を、画家として紹介してくれたのである。 芸能人であるが故に話題となった、プロボクサーのセコンドとなってWBA/世界チャンピオン・鬼塚勝也を生み出す大事業に本気で取り組み、達成後の虚無感から脱却し、「墨と硯」の世界に心を向けたのであった。 墨彩画に興味というよりは、没頭していた様は目の輝きで理解できた。ロケ車の中には、移動中いつでも好きな時に絵が描けるようにと、画材と野菜が用意されていたエピソードもある。 新宿・三越デパートでの初個展を機に、個性的な役者として活躍しながら、絵の世界でも名を成し始めた頃であった。 片岡鶴太郎氏が描く、動物・草花・魚などは、誰もが身近に出会う生命体を、自分で感ずるが儘に彩色され「生活空間の中で、自分を描いて欲しいと向うから要求しているもの」を見事に墨彩で表現している。「下描きなし・感じた色を紙にのせる」手法は、「勢いをつけるには躊躇無く素早く描く」藤井氏と一致した。 偶然にも1954年生まれ同士とあって、話は大いに弾みそれ以来の付き合いが続いている。 この夏、東京・青山の「新潟・ネスパス館」で藤井克之氏の個展「墨で描く越佐の四季」が開催された際にも「藤井氏の墨彩は、越後人らしい誠実味に溢れ、奇をてらうことなく、淡々とありのままに表わされている」と作者の源流は、強力な郷土愛から派生している事を見抜いた画家・片岡氏は推薦文でメーッセージを贈っていた。 「墨彩画」を身近なものとし、近年飛躍的に流行らせ、大衆に持ち込んでくれたのが片岡鶴太郎氏である。 |
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中越地震で和紙の生産に影響・大沢和紙 |
藤井克之氏は本拠地・故郷・巻町にアトリエを構え、時間の許す限り精力的に「墨彩画」の普及と指導に務め新潟市や三条市など県内6箇所で絵を教えているが、運命を変えた大沢和紙のその後はどうなったであろうか。 湯之谷村(現・魚沼市)の和紙職人・遠藤達雄氏は既に70代となりその技術は子息らで絶やすこと無く脈々と伝統を受け継いでいる。 安価な洋紙におされて需要減が長く続いていた和紙業界であったが版画家・加山又三が湯之谷の和紙に惚れ、その良さを認めた辺りから需給関係は、完全に逆転してしまった。 需要は増加する一方だが、生産量で限界のある和紙、画家達が自分の好む湯之谷産を手にするには、順番待ちを覚悟の上で発注している状況である。 更に、中越地震で、地元や小出、川口など近在の楮木(こうぞ)が崩壊し今年度の収穫が危ぶまれ、生産に欠かせない仕事場の煮釜も転倒を恐れ余震が完全に収まる迄は、火と水を使う作業工程を制限せざるを得なく平成16年度産・越後和紙の生産を危惧している |
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