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活躍するOB 1988年(昭和63年)卒 歌役者 佐藤敏之さん |
年間200公演をこなすオペラシアターこんにゃく座の10年選手
中学校(巻西)で柔道を始めた頃、巻高は、バレー・陸上・ラグビーと県を代表する活躍が目立ち、同じ町の高校へ進学した時は、人気の高いラグビー部へ躊躇なく入った。勝利監督として何度となくマスコミに 登場していた、名将、規律厳しい山田栄一先生の間近にいる事で満足感があった。自分の可能性を探る人生はここから出発する。 部活で汗を流す屈強な仲間達は、2年後に花園出場の英雄たちとなる。ラグビーは彼らに任せよう。入部早々結論を出し、映画鑑賞に切り替えた。 巻高に映画サークルが無いのは残念であったが、そのうちに仲間を募って同好会を立ち上げようと思ったりしていた。テレビ・ビデオの登場で、映画ビジネスの全盛期は遥か昔に終わっているものの、2000館近い全国の映画館での、年間入場者数が徐々に増加傾向にあった頃である。角川映画や大林作品などを観るために、何度も積極的に足を運んでいた。 ここで興味を抱いた事は、スクリーン上で演ずる俳優・役者たちの表情・言葉や息づかいの相互比較であった。やがて、生の表情がもっと良く見える演劇に強い関心を示し、自分でも思いどうりの演技をしたくなった。 |
役者魂のルーツは保育園 | |||
僅か5才の少年ながらも、他の誰よりも格好よく見せようと「右の足と両腕を素早く直角に曲げなさい」と教えられた言葉を忠実に守って、後で先生に褒められた事を憶えている。「おゆうぎはたのしい」これがオペラ界への心の旅路の第一歩。この時から数えて30年が経過した現在、全国のステージで多くの児童たちと向き合って公演し接触する機会を自ら楽しんでいる。楽しいことが音楽と重なって子供達に伝わり、小さな心の何処かに良い思いでとなって残してくれれば最高の喜びである。 |
演劇部での活躍 | ||
3年生の1987年、燕市で開催された郡市大会に出場の為、シナリオを考え、自ら演技指導した。 演劇部顧問の中倉先生は、古典を教えており、能樂や狂言を解説してくれる時は話が止まらなかった。 郡市大会には「箱」というタイトルで参加し、優勝。 だが下越大会では力を発揮できず、県大会出場を逃してしまった。「世の中、何事も箱に見立てられる枠という障害があり、この殻を破ってこその青春である」と若者らしいテーマで、全員が活気溢れる演技で挑戦、 結果には大きな達成感があった。 |
役者人生の助走期 |
高校を卒業し、長岡市内にある調理師専門学校で学んでいた時も、演劇を忘れていたわけではなかったが将来を考え、巻町の自宅からバイクで長岡の学校に通いながら、真剣に料理人としての修行を積んでいたので、毎日が充実していた。今でも自分で料理を作る事が好きで、何かと重宝している。しかし、脳裏のどこかに深く刻み込んだ演劇・芝居に係わる仕事への憧れは、膨張するばかりで止まらない。 一大転機は23歳の春、上京し舞台制作会社へ入り、スタッフワークになった瞬間からであった。 好きなこの世界で働く喜びは何ものにも変えがたい。主として舞台照明の仕事に携わりながら現場勉強をした。「役者としての基礎を本格的に学び、やがてプロの演劇人を極めたい」。永年持ち続けてきた夢の実現に向けて実行に移す時がきた。 |
黒テント俳優基礎学校へ |
業界の情報は溢れんばかりに入ってくる。いつまでも自分は若くはない。ここで演劇人への道を切り開こう。野田秀樹率いる、夢の遊民社に入ろうと準備する。たが、突然の解散となり、黒テント俳優基礎学校に入った。
ここは、何時間でも、「稽古そのものが授業である」との理念を貫き通す劇団であり、皆が個性に溢れていた。明日に向かって、夢中で励む仲間たちと会話を交わす事だけでも毎日が楽しかった。
熱心に指導してくれた講師のひとりが、「オペラシアターこんにゃく座」で活躍されていた大石哲史氏であった。関西二期会出身で当時40才、キャストの魅力を懇切に教えてくれた。「こんにゃく座」との出会いである。 巻高在学当時、新潟の演劇鑑賞会に入っていた頃、いわゆる中央で活躍している、名前の知れた演劇公演が市内のホールで上演される度に何回か観に行ったが、こんにゃく座の公演を観る機会は無かった。 しかし、「十二夜」や「セロ弾きのゴーシュ」などの受賞報道を憶えており、座の名前だけは知っていた。 やがて卒業公演も終了、永年の夢であったプロとしての役者人生の道を開けることが出来るか試す時がきた。受かる自信は無かったが、思い切って「オペラシアターこんにゃく座」のオーデイションに挑戦した。 試験会場に、何十人いたかは覚えていないが、歌手としての合格者は自分と音大・声楽科卒の僅か2名であった。声楽を専門に学んだ事のない自分であったが、基礎レッスンを受けていたのが役に立ったのかも知れない。 「いつかは、大石哲史先生と共演してみたい」。壮大な夢を膨らませながらの入座となった。 |
1995年4月 「オペラシアターこんにゃく座」の歌役者となる | ||
この数年前、東京藝術大学に「体育小屋」と呼ばれた建物があった。ここは、美術学部の体育室で、広さは80畳余り。学生達は体育の時間になるとここに集った。 声楽科の連中もこの「体育小屋」を共用しており小屋壁面の大ガラスを見ながら、全員で柔軟体操をし、この訓練は、発声に必要な腹筋強化にもなるからと同大学の宮川睦子先生が本格的な指導をした。 これが「こんにゃく体操」の起源である。芸大卒の巻高同窓生、彫刻家・茂木弘行氏(1963年卒)は学部を問わず誰でも経験した、と懐かしそうに振り返る。 この当時の学生達が「こんにゃく体操クラブ」と名づけサークルを作った。「こんにゃく座」はこのクラブの出身者達が創設した日本語で演ずるオペラ劇団である。 |
こんにゃく座東京公演で出演した主な作品リスト(抜粋) | ||||||||||||||||||||||||||||||
こんにゃく座に晴れて入座した1995年の春は阪神淡路大震災直後の時期であった。地元の学校で子供達が皆で楽しみにしているからとの要請に応じ伊丹の小学校での学校公演が自分の初演となった。 「あまんじゃくとうりこひめ」は新人時代の心に残る。以来10年の歳月がいつの間にか慌しく過ぎ去る。 東京をはじめ、毎年のように全国各地を飛び廻り、休暇をのんびり過ごした覚えが無い。 モーツアルト、シェークスピア、民話・文学物、更に賢治オペラ、そして自座台本物が待ち構え手を抜く事が出来ない毎日を愉しんでいる。 |
学校公演 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
こんにゃく座オペラは、一般公演と学校公演が主柱である。高校での公演は単独又は複数校が主催となってその地域の会館やホールなどで開催される。その数の多さで過去に積み上げてきた評判の高さが計り知れる。6−7月の2ヶ月間での高校が主催する公演数は、25ステージにも達し、オペラ普及活動の貢献度は大きい。
一瞬の写真からでも音が聴こえてきそうなエネルギッシュなシーンは、キャスト全員がステージ上でオペラとしての登場人物の役割を消化している証拠である。 「学校公演の輪を広げ、この先も情熱をかけて演じ続けます」と佐藤敏之は語る。 |
チームワークで迅速移動 | ||||||
過密な公演日程をこなすため座が一団となる。 移動には座員が交代で4トントラックを操りステージ上の役者も運転手に早代わり。移動・設営・バラシ、これも仕事である。 巻高創立100周年記念の公演であればどこからでも駆けつけますと約束。
オペラシアターこんにゃく座 Official Siteはこちら>> |
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舞台は生の声で唱い、日本の言葉で作られた脚本を作曲家の音楽で語ることがオペラとして生きてくる。 台本を生かすための演劇性と、物語を生かそうとする音楽性のどちらが劣っても様にならない怖さが解り始めた。だから「オペラシアターこんにゃく座で演ずることが愉しくてしょうがない」と佐藤敏之氏は目を輝かす。「いつか、巻高生の前で演じてみたい」。巻高単独主催による「佐藤敏之凱旋公演」を実現させたいものである。 |
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インタビュー 2005年6月(東京・新橋) 取材協力 オペラシアターこんにゃく座宣伝部 |
佐藤敏之 出演 オペラシアターこんにゃく座 9月公演のご案内 |
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原作 井原西鶴 2005年9月23日〜25日 世田谷パブリックシアター |
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