巻タリアンニュース 第26号


活躍するOB 1960年(昭和35年)卒
いすゞ車体株式会社 代表取締役社長 中原一六さん

コミニュケーションが良質な協業を産む
ドライバーに快眠を提供するマキシルーフ(ルーフベッド搭載車)
自動車工業界で活躍する意気軒昂な同窓生がいる。学校の先生になる事を夢見て、教育実習も済ませ郷里の親父を安心させるつもりでいた。ところがいつしか、派手な証券会社に憧れを抱き明治生まれの親父に就職相談したところ大反対。「お前は勘当だ」。予期せぬ言葉に仰天する。
経済学部卒業後止むなく就職したのは堅い製造業。これが経営者魂の開花する運命との出会いとなる。
爾来40年間に及ぶ挑戦的企業人生を振り返り、後輩の参考になればと、思い出を語ってくれた。
向こうっ気が強く歯切れ良い。越後人には珍しいが巻高弁論部と演劇部に在籍していiたと聞き納得する。(撮影・2005年7月)
「夢と若さと誇りある会社」
鮮明な経営スローガンを掲げる中原一六社長は、「この会社にサラリーマンは必要ありません」。
自ら考え、発言し行動する「ビジネスマン」こそが求められる人材とし、自社の経営総合指針の中に「早思・速動」を唱えている。受身になる事無く、挑戦意欲を持つ姿勢を保ち迅速に実行する行動規範を社長自ら示しながら「信頼・コミュニケーション・協業」を加えた基本方針をカードに明文化し、全社員に携行させ コンベンションで復唱させるほど徹底遂行を推進。
この理念を貫き通す同窓生・中原社長が辿った道を徹底解剖し、社会人になってから何を学び取りどうやって経営に生かしておられるかを探った。
中原信・木山小学校校長は、日曜にも係わらず、朝から落ち着かない。息子イチロクが帰省する日だからである。赤塚中学校で21日間の教育実習を終了していた息子は、教員採用試験を受ける前に何やら相談があるという。 どんなアドバイスしようかと、長年教職に携わって来た自分の人生を振り返りながら、思案していたのであった。

ところが、親の言う事、子は聞かずで、「先生になるのは止めたよ」家に着くなり言う息子にショックを受ける。一体どんな職業に就きたいかと聞けば「証券会社」が第一志望という。それは父として“最も嫌とする商売”である。「今景気が良くても、この先の保障はない。自分のような教育界に入り、良い教師を目指すのだ」と繰り返す。やがて「もう良い。自分の勝手にやりなさい」。説得を諦めたとき、親が子に言う常套文句となった。
「先生にならんでも良いが、お前が証券会社に就職するのだけは考え直せ」と口調が強い。イチロクは沈痛な面持ちで新潟駅から特急に乗り、6時間かかる上野行きで帰京した。就職するなら証券会社と決めてはいたものの、そこまで親父に反対されたのでは、考え直さざるを得ない。

オリンピック景気で活気溢れる東京。学生の間では金融・証券業界への就職希望者が多く、憧れの職種であった。羽振り良い大学の先輩(酒巻英雄氏=後の野村証券社長)らの話を聞き、同期の野沢正平(後の山一証券社長)と証券界で活躍する夢を語り合っていたのに残念と思いながら、翌日、市ヶ谷校舎(法政)の就職課に出向く。
ふと目に付く会社案内があった。「車体工業株式会社」。あたかもその冊子が自分を呼びかけているような感がした。この会社は、いすゞ自動車直系の有力企業である。いすゞ自動車には父親が懇意にしている役員もおり早速紹介状を戴く。
入社試験を受け「車体工業株式会社」に入社。もちろん親父も納得。中原一六氏を自動車産業界へ導く第一歩となった。教員採用に必要な単位を履修して得た、高校2級、中学1級の社会科教員免許は使う事無く、眠った儘になってしまい、母校・赤塚中学校で生徒達と過ごした3週間の教育実習は、思い出として残す事とした。

1964年4月大卒同期・33名と車体工業入社
入社当時の中原一六氏
恐いもの知らずの新社会人、最初の所属は人事課であったが武勇伝に事欠かない。
会社の為に有効的でないと自分で思った事に対しては、社内提言グループを作って、組合に注文つけるなど「早思・速動」主義を貫き通し、誰とでも渉りあう技能を磨く姿は、どう見ても新人・人事課員らしくない。君は柄が良くないと、当時、エリート職場の一つであった人事課を1年半でお役御免となる。

次に配属されたのは、仕入先を管理する購買部門。
ここで 製造を担う二次、三次下請け会社の現場廻りをしながら外部折衝能力を磨いた。
自分が発注した仕事は、相手にとって無理難題を承知で納期交渉をして行くうちに、「互いの人間関係をいかに築いて行ったら目標に達せられるか」を学び、実務上で身に付けた「信頼」の重要性を肌で理解できたからこそ、今実践に役立たせている。
購買部門異動後も、熱血溢れる言動は、とどまる所を知らず、労組の方針が組合員を守っていないとかみつき、仲間を結集し、組合幹部をつるし上げた。
それが縁で、「そんなうるさい事を言うなら、自分でも組合の仕事をやってみろ!!」と労組の執行委員に任じられ、やがては労組の副委員長に奉り立てられ、労・使発展に尽力する。
これは後年、自分が役員になってからの生きた交渉術訓練の場にもなり、大変良い経験となった。

営業部門へ移り、人脈の輪が飛躍的に拡大
自分の在籍する会社は、いすゞ自動車なる安定顧客があっての企業で、約2,000人の従業員は安泰である。
「営業は楽であろう」外部ではそう見られても仕方がない。その営業部へ配属されたのは、入社9年目であった。しかしながら自分の部署は、固定客のある「いすゞ担当部門」ではなく、トヨタ・マツダ・ホンダ・スズキなど、いすゞ以外の自動車製造メーカーを訪ね、自社の製品を売り込み、挑戦結果を数字で示す難関営業部であった。
これまでの、買う立場から一転し、売り手側に変わった戸惑い感を最初は持っていながらも、営業の武器となる扱い製品は、世界で通用する品質を誇るプレス金型が中心であったので、部署全員が売り込む自信を持っていた。意欲的になった理由は、今が、自動車業界で自分の顔を売り込むチャンスと捉えたからとも思える。
結果的には生活関連機器メーカーへの開拓にも貢献する事となり、多くの初対面の客先と会って話す楽しみを実感しながら充実の30代を過ごし、マネジメントに専念しなければならない40代への、価値ある貴重なプロローグであった。

昭和末期から平成へ・社会が宴の後で見たものとは
中原氏が役員となって2年後、車体工業は、いすゞ自動車との合併問題が持ち上がった。
それまでのアプローチとして、1990年前後、日本が束の間の宴に酔いしれた、狂乱時代の実話を振り返る。地価高騰に始まり、株価・ゴルフ会員権などの相場がうなぎ登りに乱舞する平成元年・日本の世情は金が溢れる。誰もが後ろを振り向く事を忘れ去り、バブル経済が終結する瞬間まで、件の証券会社は潤い、モノは売れまくる。企業は経営資源の三要素を惜しげなく増やし、必要なくとも財源の貸し手が連日にこやかに、囃し立てていた。
下請会社の社長が「注文が多すぎて自動車部品の生産は人手ばかりでは足りません」と冗談で言ったつもりでも、翌日には誰から聞いたのか、銀行の支店長から電話が入り「何十億用意しましょうか」と猫なで声。その尻馬に乗り、借金し、バブル崩壊後、倒産した会社が続出したのは、万人の周知とする処である。

先を見据えた経営をしよう・中原一六の「協業」が生きる
1994年、円相場はいつ100円を突破するか。製造業のみならず日本の産業界は経験なき局面に遭遇し、平成不況は深く侵食中、企業の先行きに明かりが見えない。大手自動車工場の閉鎖・縮小・統合が相次ぐ。
「合併するか、独自路線で突っ走るか」。
2年前から営業・人事担当取締役に就任していた中原氏は、労使交渉で連日の徹夜が続く。
かつて自分もいた組合の主張は何よりも「この俺が一番良く知る処である」と判ってはいたが、企業は継続する事に意義がある。30年近い我が社の技術力は、二千名の社員が生活するのに 十分の状態だからこそ、力の有る今のうちに、いすゞ自動車との合併が最善策と判断。互いの「協業」を実現して、新展開を切り開く事こそが、雇用者保護であると中原氏の経営哲学が生きる。
1994年5月、車体工業(株)といすゞ自動車(株)は合併し「いすゞ自動車大和工場」が誕生した。
ここで工場長を経て翌年、いすゞ自動車の取締役となっても、「早思・速動」の精神で、行動の伴う発言を貫き通した。

いすゞ車体(株)本社ビル 2005年3月竣工(藤沢市)
完成車に手を加え、仕様変更するビジネスを「ドレスアップ」と呼称し市場規模は大きい。ここに「いすゞドレスアップセンター(株)」が誕生。新会社の副社長を4年務めた後、社長に就任。その後、いすゞグループの抜本的な改革・再編の中で、2004年6月1日、「いすゞドレスアップセンター」を母体とする、トラックの総合エンジニアリング会社「いすゞ車体株式会社」が誕生した。
中原一六氏は引続き新会社の社長を任された。
社長は常に企業の最前線を歩み続け、先を見越した挑戦を怠らない。

いすゞ車体のセールスターゲット
自家用車の殆どは、メーカー標準車がそのまま、ディーラー経由で購入者の手元に入る流通を辿るが、トラックやバスなどの商業車は、その多くが、実はメーカー標準車に何らかの改装が加えられて顧客に渡される。
いすゞトラックは、年間約3000億円が市場に出回るが、この数字は工場からの標準完成車出荷金額であり、これらの凡そ8割はメーカー出荷後、使用者となる業界に最適な商用車として改造されてから街を走っている。この分野こそ 中原一六社長が取り組んでいるビジネスで、プラス1000億超のラインオフ車市場が存在する。
今、いすゞ車体の市場占有率は約10%、これを拡販し30%以上に到達させる明瞭なターゲットを照準とし、一晩眠る度に1億円の売り上げを計上する具体的な経営目標を掲げ、部門を編成し着実に実を結ばせている。
かつては組織の一員として出発し、その経験を積み重ね、今は組織の頂点で企業を牽引しているのである。

達成へのプロセスアプローチ
いすゞトラック・バスを扱う有力販売会社は、大型店8社をはじめ総合店や小型店など全国に約40社あり、これら全てが明確な顧客である。1000億円市場の取り分は、販社が改装依頼を何処に発注するかに依存する。
北海道から沖縄まで店を張り巡らしているディーラーやボディメーカーをどうやって攻略するか。
「十分なコミュニケーションで信頼を得て、顧客といすゞ車体が、互いに協業するメリットを理解させる」自信強く語る。日産自動車のカルロスゴーン氏は自ら販社へ出向き、陳列の仕方まで自分の意見を述べ必要な是正を加えるが、中原氏は、販社そのものが顧客との考えで全国のディーラーと付き合っている。
提供側の自社運営に関しては、社内組織をクロスさせ前進する力に導き、買い手の要望に即応できる体制を磐石にする為に、力強く陣頭指揮を執っている。「“会社を支えて戴いてるのはお客様である”とのゆるぎない信念の基に、だからこそ“お客様最優先”を徹底しなければならない」と力説する。「これを実践する原点となるのは、単純明快で“信頼”である。相互信頼があって、はじめて円滑な“コミニュケーション”が促進され、円滑なコミニュケーションがあってこそ、力強い相互“協業”が図れる」と胸を張って堂々と答える中原社長に一点の曇りは感じられなかった。
(文中一部敬称略)

IBCミニギャラリー

道路工事で活躍する両ハンドル車
(キャビン内に2個のハンドル)

ユーザーの個性を表すエルフキャンピングカー

大型車長の軸重試験車

「いすゞ車体(株)」は、いすゞグループ中枢のトラック物流エンジニアリング企業。
エンドユーザーの要望を余す所なく取り入れた、カスタムトラックの生産を柔軟に対応し、技術と品質を武器に顧客とのコミュニケーションで信頼を築き、更なる拡大路線を展開中。
「トラック販売ビジネスに挑戦意欲のある同窓生ならいつでも私と面談の機会を作りましょう」と昭和16年生まれの中原一六社長は、この先の発展に備え、一緒に仕事をする仲間を求めている。
      取材協力 いすゞ車体株式会社 総務・企画部

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