巻タリアンニュース 第27号


活躍するOB 1955年 (昭和30年)卒
早稲田大学・教育学部教授 藤澤法暎さん

比較国際教育論の第一人者
早稲田大学は、2004年9月に学内機構の効率化を目指して教育・総合科学学術院を構築し、教育学部はこの組織に属している。独立性の高い学部・大学院・研究所及び教職課程を一体化した組織にする事で、互いが連携する、バリアが開放された学術院が完成した。早稲田大学教育学部に夢を持って入学した、次代を担う学生達は、専門性の高い他分野・部門の学問を、在学中において吸収できる恩恵に授かり、大学側としては、彼らの在学中にこの機会を提供する事で学生の資質向上を狙おうとする、学内変革に取り組んでいる。企業マネジメントでの協業にも似たこのアプローチは、在職の教授をはじめ研究者たちの視点からは、組織内にいる学生・院生達を、全体として捉える事ができる利点を有する。規定の履修科目に加えて、専門分野にも興味を示す学生が増えてくれば、これに対応できる俊英な指導教授が必要となる。この学術院で教授をされている同窓生・藤澤法暎氏の研究室を訪ね、高校・大学・学問などの貴重なお話を伺った。
(文中一部敬称略)
2007年に創立125周年を迎える早稲田大学は、1995年に開設した大学院・教育学研究科(博士課程)の拡充に伴い、比較国際教育論の藤澤法暎氏を、大学院特任教授として招聘した。金沢大学で定年を迎える直前であったが、同大学の教授職を離れ2001年4月より、早稲田大学で教鞭を執る。大学における講義科目は、教育学部において公民科教育法、大学院教育学研究科では社会科教育研究指導・演習・特論(修士課程)及び社会科教育学研究指導・演習(博士課程)等である。これまでに培って来た40年間に及ぶ大学での学究生活は、あくまでも教育学一筋にに拘り続けている。

生徒会長選挙に立候補した動機
桔梗模様の中に「高」を図案化した校章・バッジが制定されたのは1955年。帽子につけるバッジは、5個ある角の、どの部分を曲げてつけたら恰好良く見えるかで、男子生徒の間で競い合っていた。
弥彦村・村山で春日山・専称寺の長男として十代目の跡継ぎとも考えられて命名されたのが、藤澤法暎なる名前の由来である。父親は住職をしながら教師をしており、法暎は幼い頃より自分も将来は父のように、先生になることだろうと考えていた。麓小学校(弥彦)、吉田中学を卒業し巻高へ進学。入学当初、3ヶ月間は病欠するなど、体力に自信を持っていた訳ではなかったが、高校2年の3学期から1年間、生徒会長を務める事となった。当時上級生の番長グループが、目立つ下級生にヤキを入れる伝統があった。これを何とか無くしたい、というのが主な動機であった。「これが何十年か経って同期会で顔を合わせると、あの頃対立していた連中と結構話が合うんですね。彼らはただ単に元気が余っていた男の子達だったのかも・・・」と法暎は笑う。こんな経験をし、また受験本意の高校教育への疑問も芽生える中で教師になる以上、教育そのものについて勉強しなくては、と思うようになり「大学では教育学を学ぼう」と志すのであった。しかし、生徒会長の任期を終えた1955年(昭和30年)、3年生の3学期は、再び病気との闘いで登校することなく、殆ど受験勉強も侭ならず、卒業を迎えた。

 
筑波研究学園都市、多摩ニュータウン構想とも移転に関する賛否衝突が過激に噴出し、多くの利害関係の対立で抗争事件を生んだ。
1955年3月、巻高を卒業すると、東京教育大学・教育学部・教育学科に入学した。1950年代半ばは、神武景気で代表される高度経済成長が進行する中、一方では学生運動の形で様々な闘争が拡大し始め、地方から上京して来た多くの学生たちを巻き込んで、60年代の安保闘争へと発展。藤澤法暎氏も学生時代は集会やデモに参加。2年次の時、東京教育大学は全学連に加入。権力に対する言論交渉、これだけでもカルチャーショックを受けた。だが、自身が経験した在学時の学生運動は、60年代後半の東大安田講堂占拠事件などで見る、攻防のための武具を使う過激闘争とは異質のものであった。やがて東教大卒業の年を迎え、この先の進路を決断する時が来た。教育学を学ぶ為に進学した大学だが就職する時期になると、これを全うするか、新潟へ帰り教職に就くかを決めなければならなかった。昭和は経済成長を続け岩戸景気に突入。「もう少し残ろう」。教育の追及を選んだ。大学院修士課程の2年間が始まった。ここで専門となるドイツにおける教育史研究の基礎固めをしその後の3年間は指導教授の推奨もあり、大学院博士課程へと進んだ。当事の東教大は、研究する教育資源に恵まれた環境であったが、移転問題で学内は大きく揺れ始めていた。時の学長、朝永振一郎(物理学)から三輪知雄((植物学)に交代した頃、ある決定で大学は紛糾の館となって行く。博士課程2年次の8月、都心から60キロ離れた、筑波山麓3000ヘクタールの原野において、16万人の研究・学園ニュータウン建設に関する、河野一郎(当時建設大臣)の提案が、閣議決定されたのである。これで政府は後に決定した、東京の人口流入増に伴う新30万人住宅都市、多摩ニュータウン建設との2大プロジェクトに本腰を入れる事となった。

筑波移転紛争勃発
筑波移転紛争に遭遇し、藤澤法暎氏が体験した闘争を振り返る。東教大の校舎は、教育・文学・理学の3学部が大塚(文京区)にあったが、体育学部は幡ヶ谷(渋谷区)、農学部は駒場(目黒区)とそれぞれ離れた敷地に構えていた。東京教育大学の廃学、筑波大学づくりをめぐっては、学内では賛否相半ばしたが、次第に賛成論が強まり最後まで反対の立場を貫いたのは文学部だけであった。3年間の博士課程を終え、同大学の助手となった頃から、筑波の荒地は着々と整備事業が進行し、研究・学園都市の地ならしの槌音が、一層大きく聞こえて来るようになった。学内での移転反対運動とは無関係の如く、巨大プロジェクトは推進されたのである。移転闘争で最も大規模な事件となったのは、1968年の全学スト、翌春の入学試験中止、学生の大量留年、留年者の奨学金停止等である。大学紛争は、東教大のみならず、全国の大学で、学費値上げ撤回、安保闘争、法案反対と過激化し、拡大した。

東京教育大学−高知大学ー金沢大学
藤澤氏は「母校・東京教育大学を守ろう!」という若手リーダー挌の一人であり、一方指導教授は筑波移転推進派に推されて、学部長に選ばれていた。当然就職には不利だ。藤澤氏の大学教師への道は閉ざされたかに見えた。しかしながら、移転反対派の少数の教授の支援で、1968年、高知大学に赴任する事が出来た。「高知大学は、周辺にアパートが密集していて、学生同士の距離も、教師と学生との距離も近く、教育環境に大変恵まれていましたね。密接な関係、これが教育の土台ですから」と藤澤氏は回想する。これこそ理想として求める大学のあるべき姿である。高知大学で11年間勤務し、助教授・教授を歴任後、1979年には金沢大学教授となり、22年間務める。金沢時代には、1990年から3年近く、日韓歴史教科書改善の共同研究の世話人を務め、社会的に注目を集めた。

東京教育大学の閉学
東教大は、1978年3月、完全閉学した。当事、移転反対派として闘争した教授陣の中には、「東京教育大学は筑波大学へ移行したのでなく、大学そのものを廃学したのである」と主張する者もいる。ちなみに、移転反対を表明した、ある学部教授の許で活動した教官は、筑波大学開学時での採用に際しては完全に抹殺され、誰一人筑波大学の教授になれた者はいない。所謂移転推進派による「反対派処罰人事」である。東京高等師範学校を軸に、四教育機関が統合し新制大学として開学した1949年(昭和24年)には、大学の名称決定の際、組織内で紛糾した「東京教育大学」であったが、僅か30年後に、その名は消滅する事となった。

歴史教育を比較解剖する学問の愉しさ
何冊かの著書は、授業・ゼミで使用し討論の材料として活用させている
藤澤法暎氏の論文・著書にはドイツに関する教育関連書が多い。「ヒトラーの教科書」は、国家社会主義政党(ナチス)がいかにして民衆の支持を獲得したのか、ファシズムへの戦略としての教育を詳細に検証したものである。また「ドイツ人の歴史意識」では、戦争責任を彼らはどのように教育して来たかを、ドイツにおける教科書を資料としながら解説している。日本の教育を見直す手がかりとしては、ドイツが規範であるとの信念で専門の比較国際教育論を教えて40年になるが、多くの教え子が現在は学校教師として教壇に立ち、生徒達と向き合っている。ドイツ教育論を専門とする学者は珍しくないが、20世紀の歴史教育及び公民教育の歴史の観点から、比較研究する独自の手法は稀有である。

社会科の先生は社交性が必要です
学部履修科目の中に「社会科教育法」という授業がある。この授業は教育学部のみならず、文学部や政経学部などからの学生も集まる。先ずお互いが顔馴染みでない事を利用して、数人の小集団・班を作らせる。次に、あるテーマを学生に与え、このテーマに対して夫々の考え、知識をグループ内で述べさせ、発表者は聞き手に対して意見・感想を求める。社会科教育法は、模擬授業において、実践的な手法を教える場合もあるが教師になった際に、教科をとおして社会における人間のあり方などを考える力を養う授業でもある。その為には出来るだけ多くの社会・人とコニュニケーションし新しい世界を覗く事が、この学問の糧となる。社会科の先生になるには、好奇心のない引込み思案の性格にならず、柔軟に対応できる社交性を身につけ、外部知識を吸収する力を磨いてから、教師になれと教えているようである。
藤澤法暎氏の教授室は、高台にある西早稲田キャンパス16号館9階にある。将来教職に就くであろう、若い学部生・院生相手とする長年の付き合いで、用語解説の丁寧さに驚く。早稲田大学教授の定年は70歳である。現在は東京に仮住まいし、中野から早稲田に通っておられるが定年後は自宅のある金沢市に戻るという。大変なヘビースモーカーで、先生はインタビュー中もタバコから手を離す事はなかった。教育学の研究一筋に情熱を注ぐ同窓生の、ご健勝を祈念するばかりである。
参照記事 がくぶほう(早大教育学部報)7月号
インタビュー 2005年11月8日

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