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活躍するOB 1924年(大正13年)卒業 100歳万歳 関根五郎さん 元・陸軍工兵中尉 殿 |
文中一部敬称略 | ||
同窓生・関根五郎氏は間もなく100歳を迎える。57名の同期と共に第13回生として旧制・巻中を卒業して82年が過ぎた。 5年間の在学時代は、好きな剣道に明け暮れ、庭球や遠泳なども得意とし毎日体を動かす事が何よりの楽しみであった。 関根家7人姉弟の末っ子は、機敏性を人一倍持ち合わせ、雑魚獲りの名人として友と遊んだ越後・間瀬の海岸を懐かしむ。 父・関根彰氏は越前浜出身の熱血漢、巻警察署長を務め、県警時代に巻町の嘱望で町長に推挙され、大正2年(1913年)から7年間、巻町長として活躍した。関根家は何をするにも、厳格な父の管理の許でなされていたと振り返りながらも、末っ子の五郎氏だけには甘かったようである。 大正9年(1920年)、町長を辞し軍属として樺太開発を託され赴任したが、同年急性腎臓病で没。中学2年時に訃報を聞いた。 五郎氏より4歳上の兄、関根四郎氏は旧制巻中の9回生として大正9年に卒業している。兄の在学当時に常日頃聞かされていた、剣道や柔道部の活躍、師範学校出の先生の話題などに興味を抱いていた弟・五郎氏も、結局は同じ巻中へ進学したのであった。 遠洋漁業の船舶会社を経営していた四郎氏も、今では故人となり、五郎氏が唯一人関根兄弟を守っている。 同期生で東京(八王子)に居住中の安沢隆雄氏とは、巻中卒業後それぞれが小学校の代用教員を務めながら志望大学への進学準備をしていた事、支那事変(日中戦争)下での満州生活など共通点も多く、平成18年・巻高校創立100周年の慶事に、互いに百寿を元気な姿で迎える喜びを分かち合っておられる。 |
間瀬の銅山が自分の人生の進路を決めてくれた |
間瀬海岸の近くにあった鉱山は、採鉱道としては小規模ながら、江戸時代中期から良質な銅の産出に一役を担い、隣接の工業地・燕の発展にもおおいに寄与してきた。 この「間瀬銅山」は、関根五郎氏にとって忘れる事の出来ない思い出の場所であった。ここでは黄銅鉱を炉に入れ燃焼させ、硫黄部分を取り除き、良質な鉱石を間瀬海岸から船で運び出していた。亜硫酸ガスが燃え、異臭を放ちながら実にきれいな炎を出していた様子が関根五郎少年の目に物珍しく、海岸で遊んだ帰り道にはいつも立ち寄ってはじっと観察していた。トロッコで運ばれてきた採石の中には、美しい形をした紫水晶のきれいな石もあり、ここで採れた沸石は、間瀬銅山を潤わす重要な産出物であった。今でもマニアが訪れる。 これが鉱山に対して興味を抱いたきっかけで、巻を卒業したらもっと本格的に「石」を学んでみようと兄達に相談。秋田大学・鉱山学部への進学を決心し、大学卒業後も企業に入り三菱金属工業において一生を採石と共にするのであった。専門分野は、鉱山から効率よく良質な金属を採り出す技術を編み出すプロセス開発で、北海道から九州まで鉱物資源の採鉱人生を楽しんできた。 だが永年に亘って身を置く事を余儀なくされた「戦争体験」は決して忘れる事はできない。 |
幹部候補生志願学校で得たもの | |
関根五郎氏の人生100年の中で、その20年近くを戦争と関わりのある生活で過ごしてきた。 初体験は志願して参加した、陸軍工兵幹部候補生訓練である。 昭和6年、満州事変勃発の年で世間は一際騒々しい。口頭試問を合格し、入学は許されたものの、東北・仙台での訓練は想像を絶する試練であった。人権無視の指導も甚だしく、午前中の学科、午後の耐熱・耐寒・行軍訓練はその最たるもので、耐熱とは炎天下に水分補給しない事、耐寒とは厳寒時期に防寒用具をつけない事と教官は叫ぶ。前年の15人は誰一人として卒業できない程であった。しかしこの20代で覚えた人体鍛練が、以降の軍隊で生き抜き指揮するべく精神・肉体を形成してくれたと当時を振り返り、懐かしむ。 人は死ぬ気で訓練すれば、どのような事でも耐えうるものだと心底に刻み込んで、士官の卵はやがては所謂娑婆となる満州・南京へ出て行く事となった |
徐州・徐州へと人馬はなびく | ||||
昭和13年5月、日中戦争が拡大する中で、中国国民軍と激しい戦闘となる徐州会戦前に関根五郎氏は、ここの作戦会議室にいた。聯隊長は参謀らと対峙しながら行軍詳細の演説をしていた。 作戦会議の最後になって「まもなく北へ我が軍を進撃させる。市街突破が中心となるので多量の爆薬を使う。自軍の作戦として、合計で25筒の爆薬を使い・・・・・」と声を荒げた。関根部隊長は即下に異議を申し立てた。「我が調査によると、たとえ万里の長城を築いた国とはいえ、この地の城門類を見た限り外面重厚そうには見えるが、石材の種類と隙間から推測すれば、聯隊長の指示する爆薬は余りにも多すぎる。然るに自軍の使用爆薬量は、凡そ7筒余りで十分とみなし・・・・・」。関根氏の反論に聯隊長は烈火のごとく吠えた。「部隊長は部下が可愛くないのか。もし城門突破に時間を費し、日本軍に不測の事態が起きたらどうやって責任をとる気だ」聯隊長は激しくまくし立てるが関根部隊長に怯む気配がない。「余計な爆薬を隊員に持たせ行軍する事こそ危険極まりない。自分は発破技術を専門に研究し永年の経験を積んでいる。一切の行軍責任を任せて欲しく・・・」と鉱山採掘理論で展開。この後も激論は続いたが、関根五郎氏は最後まで自分の意見を押し通し、翌早朝、実践に移した。 鉱山での発破現場では、実質爆速を測定すれば、最適な1孔あたりの爆発効率を求められるがここではその余裕はない。経験から得た勘を優先した。徐州会戦は関根部隊長の前線突破作戦が成功、功績偉大なりと、後年軍部表彰される事となる。
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3302会戦友会親睦のしるし | |||
関根五郎氏は、幼少から何十年も練成してきた剣道によってその張りの有る声量が、100歳になっても変わる事はない。しかし毎年一度だけ、その声が「嗄れてしまう」期間がある。それは、「戦友会の集い」終了直後の何日間かの事である。 敵地に於いて戦隊は、多数の部隊により構成されている。多くの戦友会は、同じ部隊で辛苦を共にした同士の会である。いつの日に会っても互いに健在を讃え合い、果てす事無くかつての記憶を語り合う。正に夜どうしの会合となって時にはその声が涙になっても、生きてる証を堪能してしまう。 最年少組で二十歳そこそこだった青年でも、今60年を経過し近年はどの戦友会においても、参加者の減少が話題になるが中心世代が80代へシフトされたとなると無理からぬ事である。関根五郎氏の戦友会は、シベリア抑留の後帰国した翌年から今日まで毎年欠かす事がなく続けられている。会の名称を「三三〇二(さんさんまるに)会」と名づけ満州第3302部隊の戦友達が、昭和25年に立ち上げた。福島・新潟・宮城・山形などから年一回の結集は消滅しない。 この絵は満州第3302部隊、鶏寧兵舎の復元図である。兵舎の写真撮影は厳禁であった。戦火をくぐり抜け無事生還できた隊員が、3302戦友会のために第30回大会の親睦記念として全ての記憶を元に書き残そうと制作したものである 昭和16年8月の関東軍特別演習(関特演)から3年余りを経過した19年11月の、鶏寧軍完全撤収まで部隊在籍約1200名の大部分はここを根拠としていた。ここから分遺し作戦が終了すればこの兵舎に帰隊ししばし休息、練成の夢を結んだ。(撤収後満40年を記念して制作した戦友・佐藤卓治氏の寄稿文章を引用)実際の復元図は兵舎全容を現し、後方の天空は青く晴れていたはずであったが、真っ黒に描かれている。兵士にとっての兵営は全員が灰色が基調であった故、兵舎を強調する意味でも前景と空を黒く表現したという。 |
賞状・勲章・功労金 | ||
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掲載写真:関根家蔵・アルバム帖より |
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