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活躍するOB 1955年(昭和30年)卒業 燕市長 小林 清 さん |
地域の個性を行政の活力源に 平成の大合併は、構成する自治体組織図を国のトップダウン方式でなく当該地域協議の許で推進すべきものだけに、当事者となった住民同士での損得・駆け引き・葛藤・策略は、部外者では理解できる筈もなかった。 |
旧燕市と旧分水町・誕生の偶然 | ||
旧燕市は1954年(昭和29年)3月31日、燕町と近隣3村が合併して誕生した。
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分水町・町長として | ||
小林は平成7年に分水町職員を退き、町の商工会で事務局長となる。当時多くの自治体は、行政自ら減量体制の規範を示す必要に迫られ自部署も多数の職員をその対象とすべく、その厳を下すことが総務職・最高責任者としての自分の職責であった。そして自らも、約42年間に亘るその職を辞したのである。 小林は約4年の年月を経て、今度は分水町の町長として再び行政の職に戻って来たのである。 |
市町村合併協議会 | ||
新らしい首長を決める事になった新燕市誕生への道のりは、蛇行運転の連続であった。
分水町は当初、岩室村・弥彦村・吉田町・分水町及び寺泊町の3町2村となる広域合併を目指したが実現に至らなかった。 当時全国の多くの自治体で経験した現象であるが合併反対の議員(住民)多数で首長を追いやって選挙しても、再選で同一首長が返り咲く事もあり徒労選挙と呼ばれても仕方なかった。 |
新燕市・市長選挙の背景 |
新市誕生に向けて燕・吉田・分水の法定合併協議会を発足以来1年半が経過。 時も押し詰まり、誰が新市長に最適か。この中の誰かに市長になってもらいたい。 |
市長選挙立候補 | |||||||||||||
郷里・分水町の閉町式が執り行われる3日前、平成18年2月28日、市長選出馬を正式に表明。. かくして小林は、新燕市の市長選挙に勝利した。
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東京分水会 | ||
平成19年度の東京分水会は、6月17日、ホテル・聚楽において会員・来賓、総勢110名が参集して賑やかに開催された。 懇親会は小林格夫(33年)の司会進行、棚橋かう(30年)の開宴の辞で華々しく開催、小林清市長は「3市町村が合併してネガティブになったと言われないよう、しっかりと84,000人の舵取りをしたい」とあいさつ。 良寛研究家の平出英雄(36年)が幹事長を務めるこの郷人会は、矢野アツ(33年)、小林賢一郎(36年)、白井俊彦(38年)の各氏、村上昭二名誉会長と同期の登石正中、渋木久弥、池田孝一郎氏ら29年卒組も多数も参加し、さながら巻高同窓会のようでもあった。 |
取材協力:東京分水会 写真提供:燕市 記事引用:燕・吉田・分水合併協議会誌 (文中一部敬称略・自治体名は合併前を使用) |
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