巻タリアンニュース 第32号


活躍するOB 1955年(昭和30年)卒業
燕市長 小林 清 さん

小林清・燕市長

地域の個性を行政の活力源に

平成の大合併は、構成する自治体組織図を国のトップダウン方式でなく当該地域協議の許で推進すべきものだけに、当事者となった住民同士での損得・駆け引き・葛藤・策略は、部外者では理解できる筈もなかった。
一見公平と思えた住民投票が実施され、尤もらしき名称を決めて発表し、これで決着かと遠方でたよりに聞いても、いつの間にか白紙に戻り、何の拘束もなかったのだと知らされる。
合併に賛成した市町村も「仕切り直しだ」と離脱解散していた。当時合併協議に直面していた、自治体の首長たちの心労は、凄まじきに達していた事は容易に推量できその中には何人かの巻高同窓生が関わっており、各地で開催される同窓会では、いつも話題となっていた。吉田町・泉光一(37年)、巻町・田辺新(38年)、和島村・笠原芳彦(48年)、分水町・小林清(30年)、各々の地域は異なるが、各氏はいずれも巻高同窓生で、町村合併直前までは、町長・村長として自治体の担い手となって活躍しておられた。かつては夫々の役場職員経験を経て、選挙で勝利した面々である。
やがて時は経過し、特例債の有効期限に気をもみながら、平成の合併劇は粛々・恐々と進行。多くは、初期段階での想像を覆す新自治体の誕生として、結末を迎えたのであった。
その後の同窓生は、支所長、市議会議員、市長など華麗に転身し改革に勤しんでおられる。


旧燕市と旧分水町・誕生の偶然

旧燕市は1954年(昭和29年)3月31日、燕町と近隣3村が合併して誕生した。
同年には地蔵堂・国上・島上の3村が一緒になり分水町も創られ、西蒲原の形態変化の開始であった。
当時小林清氏は巻高3年生、出身地の中島から30分かけて地蔵堂駅まで歩き、越後線のディーゼル電車で通学。入学の前年から男女共学になっていた事もあり、朝の電車通学はエネルギー溢れる若者達の華やぎの中にあった。
中学時代から運動好きで機敏性に富む小林が、巻高に入学すると誘いがあったのは、地蔵堂郷中学校の先輩が活躍していたバスケットボール部であった。
当時、県内の高校スポ−ツは、体操・レスリング・ボクシングなどの室内競技がお家芸となり中でもインターハイで優勝を重ねる、県立・三条高校(中村重治監督)の著しい活躍により新潟県は高校篭球部が全盛期を迎え、どの高校もバスケットボールの選手が花形となっていた。巻高も、当時西蒲原郡での強豪中学校出身の生徒が集まり、各大会を制していた。


斉藤先生が監督をしていた頃の篭球部
(小林清氏は前列右端)

左の写真から約30年経て篭球部同期が集結した
(中列左から2人目が小林清氏)

分水町・町長として
笑顔が弾む
(分水町・町長時代)

小林は平成7年に分水町職員を退き、町の商工会で事務局長となる。当時多くの自治体は、行政自ら減量体制の規範を示す必要に迫られ自部署も多数の職員をその対象とすべく、その厳を下すことが総務職・最高責任者としての自分の職責であった。そして自らも、約42年間に亘るその職を辞したのである。
一方では町政において、健全とは言えない状況が芽生えだしこれが成長する兆しが見え、やがて腐敗が蔓延する環境に嫌気をさした多くの町民は、何とか地元で新しい風を起こそうと一掃を期待できる人物を探し、町長候補擁立に望みを託した。

小林は約4年の年月を経て、今度は分水町の町長として再び行政の職に戻って来たのである。
平成11年春、おいらん道中の季節が終わろうとする頃であった。
新町長は町民行事には積極的に参加し、仲間として同じ汗を流すのが好きだった。
長年待ち望んでいた「町の期待像と一致する町長」を誰もが歓迎した。
東京分水会は、首都圏近郊の郷人たちが集う懇親交流会であるがここでも小林は毎年上京し、会員の輪に加わり語りかけ、故郷の風を運んでくれていた。
2期目の選挙は無投票で当選、同じ年の暮れには高橋甚一・燕市長が僅差で3選を果たしている。
やがて合併問題が法定協議会の設置で本格稼働し、新市移行へと進展する事となる。


市町村合併協議会

新らしい首長を決める事になった新燕市誕生への道のりは、蛇行運転の連続であった。
賛否両論で揺れた燕・三条を核とした連立構想の消滅以降は、燕市として吉田町との両軸で指導権を
確立したいが、吉田町と手を結ぶという事は分水町とリンクすることをも意味する。

燕・吉田・分水合併協議会の高橋甚一・燕市長と小林清・分水町長(右)泉光一・吉田町長(左)
(平成17年2月発行の概要版より)

分水町は当初、岩室村・弥彦村・吉田町・分水町及び寺泊町の3町2村となる広域合併を目指したが実現に至らなかった。
その後寺泊・弥彦との併合に向けての協議に時間を費し、この3町村同士では非公式ながらも新組織名を公募し、ネットで結果を公表していた。
しかしこれを遠い良き思い出としていつまでも残すことは出来なかった。

当時全国の多くの自治体で経験した現象であるが合併反対の議員(住民)多数で首長を追いやって選挙しても、再選で同一首長が返り咲く事もあり徒労選挙と呼ばれても仕方なかった。
時には反対を叫んだ議員が、一人の立候補者も擁立させない、摩訶不思議な選挙もあった程である。
身近に起きるこのような近隣の現実を、じっくりと見据えつつ小林は、合併協議会に参加し発言した。


新燕市・市長選挙の背景

新市誕生に向けて燕・吉田・分水の法定合併協議会を発足以来1年半が経過。
この期間の小林は、吉田町の泉光一町長と共に協議会の副会長として、燕市長の高橋甚一会長と共に合併協議の最前線にいた。
新燕市誕生に至る重苦しい時間を、三者は互いに限りない激論を交わして来た間柄である。
その奥底には、愛する三様の住民の声が、誰の脳裏からも離れる事はなかった。

時も押し詰まり、誰が新市長に最適か。この中の誰かに市長になってもらいたい。
東京分水会の幹部に取材すると「郷里で断固結束して、人口の多い組織に飲み込まんねよう、
分水人の誰もが願っていたよ」と、ふるさとの内輪話を話しながら「分水町の人口15600、吉田町25000、燕市は44000近くもいる。だがこれに怖じ気ずいて引っ込むような人じゃないよ」と小林評を語ってくれた。


市長選挙立候補

郷里・分水町の閉町式が執り行われる3日前、平成18年2月28日、市長選出馬を正式に表明。.
約2ヶ月先の投票日を前に、燕市の現役市長は、既に立候補の名乗りを上げていた。
会場となった分水町の文化会館には、小林を推す分水・吉田・燕からの議会議員らも同席した。
「自分でなければ出来なく、自分なら成し遂げる事が出来る」数々のマニフェストと思い入れを出馬表明のなかで熱く語り、これは同席した30人近い議会議員達の思いでもあった。
これから繰り広げられる54日間の激しい選挙戦で、80キロあった体重が10キロ以上痩せるとは想像していなかった事だろう。

かくして小林は、新燕市の市長選挙に勝利した。
しかも圧倒的な得票数が、勝利をもたらしたのである。
総有権者数の7割(約48000人)が48箇所に分散しての投票となったが、小林の地元分水各地区における奮闘が投票率を押し上げる結果となった。
中でも分水・真木山センターの投票所においては男性有権者数は49人いたが、その内の48人が投票に訪れた。
一地区における投票所での数字は僅かでも、特徴的な分水地区の積み重ねが土台となり、燕・吉田地区の多数が後押しした結果他候補との得票数で大差がついたのであった。
死闘を演じた瞬間は生涯忘れえぬ事だろう。
八重桜が新市長誕生を祝い、卯花月の風が優しく激闘をねぎらってくれた。

候補者名 前 職 得票数
小林 清 分水町町長 23,674
高橋甚一 燕市市長 15,923
斉藤紀美江 燕市市会議員 7,947
(選挙結果は燕市のホームページより)

 


東京分水会
東京分水会で挨拶する小林清氏(聚楽にて2007年6月撮影)
東京には首都圏吉田会(渋木久弥会長)と東京分水会(岡本満会長)なる二つの郷人会組織があり、総会には新市長を来賓として迎える。
平成19年度の東京分水会は、6月17日、ホテル・聚楽において会員・来賓、総勢110名が参集して賑やかに開催された。
懇親会は小林格夫(33年)の司会進行、棚橋かう(30年)の開宴の辞で華々しく開催、小林清市長は「3市町村が合併してネガティブになったと言われないよう、しっかりと84,000人の舵取りをしたい」とあいさつ。
良寛研究家の平出英雄(36年)が幹事長を務めるこの郷人会は、矢野アツ(33年)、小林賢一郎(36年)、白井俊彦(38年)の各氏、村上昭二名誉会長と同期の登石正中、渋木久弥、池田孝一郎氏ら29年卒組も多数も参加し、さながら巻高同窓会のようでもあった。

取材協力:東京分水会
写真提供:燕市
記事引用:燕・吉田・分水合併協議会誌
(文中一部敬称略・自治体名は合併前を使用)

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