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活躍するOB 1963年(昭和38年)卒業 能面作家 吉川花意 さん |
文中一部敬称略 | |
越後に能楽を呼び込んだ男 | |
世阿弥が晩年になって配流された島は、新潟から凡そ18里。流罪と一緒に運び込んだ風姿が花となり佐渡島という崇高なる能楽の里を産み、更には家康統治下の勘定奉行・大久保長安は、石見・甲府の奉行を兼任しながらも、佐渡の汐風と風土がよほど気に入ったのか、鉱山掘出しの統括管理をしながら申楽師であった祖父の血を受け継ぎ、能楽を格別に庇護した故に、島南西部中心の神社において溢れる数の能舞台設営に貢献、島民は演歌のごとく、謡いを口ずさむ結果をもたらしたのである。 この輝かしい芸能文化を抱く越後において、能楽が海峡を隔てた県民にも意識され始めたのはごく最近のことである。歴史有る城下町と無縁のせいか、県都・新潟市でさえ、「三絃・太鼓」には馴染みがあっても、「小鼓・大鼓」には興味を示さず、謡の師匠もたよりない。確かに毎夕薪能の如く、島で繰り広げられる姿を想像しただけで、佐渡は能楽の似合う里である。しかしブームは何故か対岸へは伝播してこない。かくして蒲原・魚沼の農家が、畑仕事や田植えをしながら謡曲を口にする事には結びつかなかった。 ところが400年程経過した今、越後で能楽に振り向く年代層が急激に増え広がり初めた。一人の能面師の誕生が、芸術味溢れる仕事人の話題を求めたメディアの中で、繰り返し登場し僅かここ十数年で市民を目覚めさせたのである。この原動力となって牽引拡大を続ける能面教室と能面師・吉川花意師を取材した。 |
能面教室「面怡会」の誕生 |
1987年3月、和納出身の吉川は、同郷・同期の金子仁(現・新潟交通社長)に頼み込んだ。 やがて説明会の期日がやってきた。会場には30人近い参加者たちが熱心に吉川の話を聞いている。 |
能面制作は楽しい | ||||||
能面教室に入門すると、生徒が制作する能面に合わせ適寸に裁断された桧の角材が用意される。 制作工程で使用する「型紙」は財産でも有る。 面打ち作業に於いて頬や鼻の曲線も微妙な工程である。 能面は能装束をつけた演者が「つけて」舞うものである。 |
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吉川花意師作による見本面と作品
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吉川花意師が教える能面には自作の型見本面があり、生徒達はこの見本面を見て触り感触を覚えながら一打ちずつ前に進む。入門して最初に制作する面は、装飾面としても人気の有る「小面(こおもて)」で各自で個人差はあるが、完成までには約半年を要し、仕上がる頃には記念すべき最初の感動が訪れる。 小面の次は、彫りが深く且つ切顎の特徴を有する「翁面」を打つ新たな挑戦が始まる。 |
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「小面・翁・般若」これら3面の制作をこなした暁には、面打ちに必要とされる基本工程のほぼ全てが網羅されているので、即ち基礎技術を習得した事になり、晴れて自分の好きな面を打つ事が許される。 能面教室は、新潟市内2ヵ所と三条市やNHK新潟文化センターで開講しているが、この他にも佐渡・村上・新発田・長岡・上越などの各地からも教室を開設して欲しいと嘱望されている。 |
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宝生(文京)、観世(渋谷)、喜多(目黒)など歴史ある流派の能楽堂が都心に点在する。 能楽堂で能を観た事がきっかけで、能面を制作したくなって入門した者や、その逆もおり生徒は様々で会社員・主婦・先生・医者・仏像師・大工・警察官などこれまでに多くが能面教室で学んで来た。 この中で、どう頑張っても面打ちがマスター出来なかった生徒がいる。さて誰かと謎をかけられたので多分いつも指導的立場にいる「先生職」だろうと想像したら、意外にも能面師と似たような仕事をする仏像師だった。何人もの仏像師が入門されたが、いつまで経っても、誰一人作品として完成しない。 高価な道具を持ち、所謂ノミの扱いは他の誰よりも、優れていた。だが、舞うための道具である能面を制作できなかった。仏像を彫ることに大成してしまうと、波長が異なる能面を打つ世界に合わすことが出来ない何かが、体に染付いているからと言われているが、奇妙な現象である。 一方、鋸・カンナ使いの上手い大工さんにとっても能面つくりには手こずる。腕のいい大工職人ほど、直線、平面作業に優れている故に、表情を作り上げる曲面表現の制作作業には苦労するらしい。 道具使いが初めての女性陣は、最初こそ時間が掛かるものの、面打ち半年位から1年と続ける内に自身の心に内在していた美意識と優しさが制作に作用し、美しい能面が出来上がるそうである。 |
能面師・吉川花意の修行 | |
会社員としてトップセールスを維持しながらの面打ち独学修行は期間を限定した己との可能性への挑戦でもあった。 |
本間英孝師との出会い | ||
佐渡宝生流の18代当主・本間英孝師を訪れたのは、60年7月の定例能の時であった。 家元が吉川の打った能面を手にしていた時、能を見学に来ていた外人観光客のひとりが「この能面の価値が分からないので、プライスで表現して欲しい」と質問すると本間英孝師が誇るように「この面は百万円近くするものだ」と答える。 |
長澤氏春師との出会い | ||
文部科学省は文化的所産で価値の高い「無形文化財」を支える技術を高度に体得した個人・集団に対し継承を図る目的で認定制度を設けているが、能楽部門では、シテ・ワキ・笛・小鼓・大鼓・囃子太鼓及び狂言の各方部門で合計13人(2007年9月現在の現存者)を認定。 |
能面師・吉川花意への発展 | ||
37歳で決意した「30年間のギャップを取り戻す能面師への道程と格闘」は、5年間で一応終篤した。 吉川は初対面の人から時折名前の由来を聞かれるが「花意の花は世阿弥の風姿花伝」からとったと答え、また「花意の意の文字は音の心、立つ日の心と書くことから好きな字のひとつで、面に音を吹き込み、舞う為の心を打っている」と答えるそうである。
「私はあと10年後に銀座で個展を開き、能楽不毛の地・新潟市に能舞台を造る新風を呼び込みたい」地元新聞・新潟日報社のインタビューを受けて掲載された、1987年に独立開業時の吉川の言葉である。 |
完成を焦らずゆっくりと時間をかけて面(おもて)を打ちなさいと教える。 |
取材協力:面怡会北部コミュニティーセンター教室 |
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