巻タリアンニュース 第34号


活躍するOB 1963年(昭和38年)卒業
能面作家 吉川花意 さん

文中一部敬称略
越後に能楽を呼び込んだ男

世阿弥が晩年になって配流された島は、新潟から凡そ18里。流罪と一緒に運び込んだ風姿が花となり佐渡島という崇高なる能楽の里を産み、更には家康統治下の勘定奉行・大久保長安は、石見・甲府の奉行を兼任しながらも、佐渡の汐風と風土がよほど気に入ったのか、鉱山掘出しの統括管理をしながら申楽師であった祖父の血を受け継ぎ、能楽を格別に庇護した故に、島南西部中心の神社において溢れる数の能舞台設営に貢献、島民は演歌のごとく、謡いを口ずさむ結果をもたらしたのである。

この輝かしい芸能文化を抱く越後において、能楽が海峡を隔てた県民にも意識され始めたのはごく最近のことである。歴史有る城下町と無縁のせいか、県都・新潟市でさえ、「三絃・太鼓」には馴染みがあっても、「小鼓・大鼓」には興味を示さず、謡の師匠もたよりない。確かに毎夕薪能の如く、島で繰り広げられる姿を想像しただけで、佐渡は能楽の似合う里である。しかしブームは何故か対岸へは伝播してこない。かくして蒲原・魚沼の農家が、畑仕事や田植えをしながら謡曲を口にする事には結びつかなかった。

ところが400年程経過した今、越後で能楽に振り向く年代層が急激に増え広がり初めた。一人の能面師の誕生が、芸術味溢れる仕事人の話題を求めたメディアの中で、繰り返し登場し僅かここ十数年で市民を目覚めさせたのである。この原動力となって牽引拡大を続ける能面教室と能面師・吉川花意師を取材した。


能面教室「面怡会」の誕生

1987年3月、和納出身の吉川は、同郷・同期の金子仁(現・新潟交通社長)に頼み込んだ。
「このビラをバスの中に張ってくれないか」。そこには「能面教室・塾生募集」と太字で書かれていた。
吉川はサラリーマンを止め、能面師としての名前を、花意(かい)と名付け、これからの人生を見据え転機を開花させようと必死になっていた頃で、心中に「自分が楽しいと思っている事を教えるのだから、きっと喜んでくれる人がいる筈だ」と確信していた。金子は吉川の依頼を好意的に受け止めてくれて、能面教室の宣伝に一役買う事となった。

やがて説明会の期日がやってきた。会場には30人近い参加者たちが熱心に吉川の話を聞いている。
その多くは定年後の趣味としてどうだろかと、興味津々で来ている様子であった。
吉川はある事で気になってしょうがない。実はここに集まっている彼らの内、半数は吉川の盆栽仲間で所謂、説明会だけの「さくら」として予め仕込んだ連中だったのである。
新潟に神社がいくつか有り神楽殿はあっても能舞台がなく、30以上もある佐渡とは比較にならない。
能面教室という物珍しさで訪れた彼らの何人が入ってくれるか。結局当日の入会は12名であった。
この人数なら良しとするかと、説明会を終了し夕方帰宅した。電話が鳴ったのは、就寝前のかなり遅い時刻であった。「説明会に行けなかったが、申込みはまだできるのか」との問い合わせである。
一人追加した。所がこれを契機に、毎日電話が止まらない。
何と1週間で40人近くの問い合わせと、その殆どが同時申し込みを兼ねていた。
こうして吉川が主宰する能面教室・面怡会(めんいかい)の第一期生が華々しく誕生したのである。
マスコミの力は有難い。入会申し込者の多くは、デパートで開催した吉川の個展の記事を、新聞で読んだからだという。「彼らと一緒になって能面打ちの楽しさを分かち合おう」吉川の夢が膨らむ。


能面制作は楽しい

能面教室に入門すると、生徒が制作する能面に合わせ適寸に裁断された桧の角材が用意される。
教材用には軟らかで作業のし易いカナダ産を使用する。
自然環境を思いやる吉川花意師、森林で何百年という年輪を経た、樹木の命を念頭に入れながら作業をすることを基本に、一つの材料は作品が完成するまで、例え削りすぎても、決して交換させることはない。
乾燥させた桧材の原木は、重さが当初1.5キロもある。
これを作品にあわせた輪郭や厚みを型紙にそって余分な個所を落とし込む。
面打ちに使用する彫刻刀や突きノミ類を、大小合わせて50丁も用意していた生徒もいた。
作品となって完成する能面の重さは約150グラム、原木の9割が削り取られた事になる。

制作工程で使用する「型紙」は財産でも有る。
能面を構成する各部位に対して、左右対称の寸法・奥行き・厚み等が大まかに記されており塾生は先ず原木に合わせこの型紙を写す。
最近は、型紙を作る際にコンピュータを使い基となる能面を3次元にスキャニングするので原紙は短時間で容易に出来上がってしまうが、あくまでも原型に対し忠実を貫く吉川花意師は、自身が描く作品のイメージに拘り自ら手で画く。
一枚の能面写真からでも型紙を制作する秘技を持つ能面師は他にいない。
コンピュータでは面の持つ独特な柔らかさや力強さが線として現わされないという。
感性は数値だけでは表現出来ないようである。

面打ち作業に於いて頬や鼻の曲線も微妙な工程である。
凹凸の型見本には、ある程度硬度の有るフィルムを当てながら立体面の調整をする。
所が全ての部位で3次元寸法が用意されてはおらずここでも見本面の模写を思考しながら作業を進める。
それだけに長い時間を掛けて自分で仕上た作品には深い愛情が沸いてくるのである。

能面は能装束をつけた演者が「つけて」舞うものである。
制作者は観客に見せる色付された面の表だけでなく、裏面にも気配りが必要である。
能面の裏を見ただけで、その能面の完成度が判り、古来から鑑定の基ともなっている。
能面の肉厚は僅か数ミリ、ノミで彫り、削り落すにも細心の注意を払う。
吉川花意師は塾生がこれを十分意識しながら打つ事を教え時折見守り、早めに修正を加えていた。
普段は見ることの出来ない能面の裏側に、隠された命が宿り彩色の施されない表情があることを知ると、楽しくなる。

吉川花意師作による見本面と作品
若女(作品) 若女(型見本面) 孫次郎(型見本面) 孫次郎(作品)

吉川花意師が教える能面には自作の型見本面があり、生徒達はこの見本面を見て触り感触を覚えながら一打ちずつ前に進む。入門して最初に制作する面は、装飾面としても人気の有る「小面(こおもて)」で各自で個人差はあるが、完成までには約半年を要し、仕上がる頃には記念すべき最初の感動が訪れる。
中には2年ほど打ち続け、漸く完成した者もおり、生まれて始めて打った面は一生の宝物となり湯煎で溶いた膠・胡粉の分量に悩み、幾度となく塗っては乾燥させ、研いだ事も記憶から消えない。
能面制作は「小面に始まって小面に終わる」と言われる。易しく入れて自分の才に感激し、自信つけて他の面を手掛け経験を積み、再び小面に戻ってきて、その難しさと奥深さに、はまってしまうのである。

小面の次は、彫りが深く且つ切顎の特徴を有する「翁面」を打つ新たな挑戦が始まる。
山なりに繰り抜かれた眼を持つ笑いの表情や、梵天眉毛・顎ひげは女面とは異なる心和む工程が入る。
そして2度目の感激を迎えるのは意外と早いようで、自信をつけながらの完成で、面打ちの虜になる。
翁面を卒業すると「般若面」に取り組む。吉川花意師考案の銅板に鍍金を施した眼球と歯が取り付く。

「小面・翁・般若」これら3面の制作をこなした暁には、面打ちに必要とされる基本工程のほぼ全てが網羅されているので、即ち基礎技術を習得した事になり、晴れて自分の好きな面を打つ事が許される。
塾生は「作品の完成まで常に自分自身と桧との闘いで、他の者との完成時間を気にすることはなく、いつ始めても同じ個人指導を受けられるから有難い」と異口同音に感想を語り、「これまで能面に全く縁のない自分たちであったが、これ程大きな達成感を味わえる趣味と出会えて本当に嬉しい限りです」とも話してくれた。

能面教室は、新潟市内2ヵ所と三条市やNHK新潟文化センターで開講しているが、この他にも佐渡・村上・新発田・長岡・上越などの各地からも教室を開設して欲しいと嘱望されている。
中でも、かつて城下町で「謡い」の稽古が盛んな地方ほど熱心に誘致が来ており、裾野の広がりが判る。

宝生(文京)、観世(渋谷)、喜多(目黒)など歴史ある流派の能楽堂が都心に点在する。
能楽堂で能を観た事がきっかけで、能面を制作したくなって入門した者や、その逆もおり生徒は様々で会社員・主婦・先生・医者・仏像師・大工・警察官などこれまでに多くが能面教室で学んで来た。
この中で、どう頑張っても面打ちがマスター出来なかった生徒がいる。さて誰かと謎をかけられたので多分いつも指導的立場にいる「先生職」だろうと想像したら、意外にも能面師と似たような仕事をする仏像師だった。何人もの仏像師が入門されたが、いつまで経っても、誰一人作品として完成しない。
高価な道具を持ち、所謂ノミの扱いは他の誰よりも、優れていた。だが、舞うための道具である能面を制作できなかった。仏像を彫ることに大成してしまうと、波長が異なる能面を打つ世界に合わすことが出来ない何かが、体に染付いているからと言われているが、奇妙な現象である。
一方、鋸・カンナ使いの上手い大工さんにとっても能面つくりには手こずる。腕のいい大工職人ほど、直線、平面作業に優れている故に、表情を作り上げる曲面表現の制作作業には苦労するらしい。
道具使いが初めての女性陣は、最初こそ時間が掛かるものの、面打ち半年位から1年と続ける内に自身の心に内在していた美意識と優しさが制作に作用し、美しい能面が出来上がるそうである。

能面師・吉川花意の修行

会社員としてトップセールスを維持しながらの面打ち独学修行は期間を限定した己との可能性への挑戦でもあった。
日頃から勝負心旺盛な気質を武器にこれを少しも減衰させることなく連日前だけを見て走ったのであるが能面師の世界に飛び込むきっかけは意外なところで誕生した。
医科器械業界で営業をしていた吉川は、遊び心で和紙を使った達磨を作ってみたくなり構想を練った。
木型を作り下張りをし、胡粉と膠を溶かして塗り上げ、さてどの顔にしようかなどと思案していた。
当時は連日のようにロッキード事件が報道され耳から離れない。話題性がある人物なら興味を示すかと三者(田中角栄・小佐野賢治・児玉誉士夫)をモデルに制作した。これが評判となり欲しいという人が後を絶たない。最近は、張子の内側には自筆の般若心経が納められ、ある高僧に「菩提達磨」なる名を賜り、益々有難たがられている。
当時は30代半ば、グラフィックデザイナーの経験のあった吉川は、達磨作りに夢中になってしまい更に次なる「顔」を思案していた時、浮かび上ったものがある。その閃きが「能面の表情」であった。
これ以降、能面の世界にのめり込んでしまったのである。だが、いざ能面の勉強をしたくとも、教材や手本が有る訳でなくその手段に迷う。ましてや師もいない。この当時まだサラリーマンの吉川は、能面師が指導している京都の教室には、とても通う事はできない。自分に特訓を課し、寸暇を惜しんで時間を割くことしかなかった。
ある時、同世代の能面作家が雑誌の特集に載り、彼は師と呼ばれ、十代の頃から修行していた事を知る。
吉川は、一大決心に至る。「俺の年代で、三十年間の修業を積んで能面師といえるのなら、空白の期間三十年を、これからの人生五年で取り戻そう」。爾来五年間は、充分な睡眠をとった憶えがない。
若い頃柔道と、四年間の航空自衛隊で鍛えた体力は衰えていなく、かつて仮想敵機を照準とした相手を、手に持てる僅かな「桧」に変えての格闘が、連日連夜繰り返された。能面制作は、歴史を積んだ古面を模写し彩色・古色を極め、筆捌きで表情を作る。こうした未知の世界への解明と試行錯誤の積み重ねが終わりなく繰り返され、人生で最も濃い修業の場を過ごし、刻々と三十年の時を取り戻して行った。


本間英孝師との出会い
銀座で吉川の個展に訪れた本間英孝師

佐渡宝生流の18代当主・本間英孝師を訪れたのは、60年7月の定例能の時であった。
知り合いの医師が「宝生流・謡の会」におられたのを思い出し、佐渡で作品の評価をしてもらいたいので、家元を紹介して欲しいと頼み込み実現したのであった。
能面を見せるや否や、家元が「どなたがお打ちになられたか」と凝視しながら発せられた。思いもよらぬ言葉を突然訊かれ持っていた「般若面」の手が震える始末であった。
この言葉の意味が、帰路、佐渡汽船の中でやっと解けた。
「何代にも亘り伝承して来た、本間家所蔵の古面の漂いを、ここまで写せる人物が越後にいた事に師は衝撃を受けたようだ」と自分を紹介してくれた医師が、そっと教えてくれたのである。

家元が吉川の打った能面を手にしていた時、能を見学に来ていた外人観光客のひとりが「この能面の価値が分からないので、プライスで表現して欲しい」と質問すると本間英孝師が誇るように「この面は百万円近くするものだ」と答える。
その外人は大きなゼスチャーをしながら「MillionValue NOH・MASK!」と叫んでしまった。
驚いたのは吉川である。自作の面がこれ程にまで評価を受けるとは信じられなかったのである。
文献をあさり調べ上げ、古面を忠実に写し打ったことには違いなかったが、独学修行し3年の頃である。
自信をつけた感はこの場では湧いてこなかった。だが古式に法り鍍金を施したり、大胆且つ精緻に打ち自分で辿った道が間違っていなかったという安堵感は忘れない。
この3年間で、昼夜20年分の修行をした甲斐があったと、これ以降の精進へ勇気づけられ「これに驕ることなくあと2年間の研鑚で、10年分を取り戻そう」と、修業の手綱を緩めなかった。


長澤氏春師との出会い
吉川花意と寛ぐ長澤氏春師

文部科学省は文化的所産で価値の高い「無形文化財」を支える技術を高度に体得した個人・集団に対し継承を図る目的で認定制度を設けているが、能楽部門では、シテ・ワキ・笛・小鼓・大鼓・囃子太鼓及び狂言の各方部門で合計13人(2007年9月現在の現存者)を認定。
通称は人間国宝として簡訳され紹介されている。
一方能面については、「演者にとって、着け・舞易さなどの観点から最も高い価値を有する面を制作できる個人」に、特別な名称を付けて保護・助成する制度がある。わが国の能面師として初めて指定された「選定保存技術”能面製作修理”保持者」が長澤氏春氏であった。
(2003年4月長澤氏没以降、該当保持者なし=文化庁・伝統文化課)吉川は、長澤氏春師(当時72歳)の許へ、独学修行4年目の春に、自分で打った面を持参し訪問した。
口数の少ない師は、自分の子息、それも長男以外に弟子を持たない主義である。
しかし長澤邸に来る者を拒むことなく、受け入れてくれるので、訪れる能面作家は後を絶たない。
だが指導するのでなく「見てくれる」だけである。多くの来訪者は自分で最高と信ずる作品を持参し師の「よく打てましたね」というお褒めの言葉を期待し、これをもって直接指導を受けたと喧宣する。
吉川だけは違っていた。打ち終わったにも拘わらず、納得しなく疑問の有る面だけを持ち込んだ。
一見無礼の様ではあるが、手を抜いた訳でなく、全霊を込めて打った能面である。しかしどうしても解らない何かがあり、得心出来ない。今ここにある能面に、本来潜んでいる魂を与えるヒントを得て完璧にしたかった。そんな吉川の作品に対して、長澤氏春師の眼光が違っていたが重い口は変わらない。
独学修行5年目ともなると、通年の面作数は半端ではなかった。だがその内の幾つかが如何にしても疑問が残る。これを修正した時が「能面」と言える時だと信じて、長澤師の門を時折くぐるのであった。
「吉川さん、あなたはこうして自作面を持ってこられるが、家にはもっとよい面がたくさんある筈だ」師は見透かしていた。確かに自宅工房には数多くの能面を保管している。だが全てがこれ以上の手を入れる必要はないと、自分で確信するものばかりだった。「この面は素晴らしい」の言葉は期待しない。
完成能面を持って訪ね来る者が多い中で、吉川だけが他と趣旨が異なる事で、長澤氏春師の関心を一層引き寄せる事となり、後年に吉川家や岩室に建てた吉川の展示施設「無匠庵」にも来訪されるなど、その後の厚誼が、師の生涯を通して深まるのであった。


能面師・吉川花意への発展

37歳で決意した「30年間のギャップを取り戻す能面師への道程と格闘」は、5年間で一応終篤した。
昭和63年春、機は熟し、プロの面打ちに専念する時が来た。当時の流行語・脱サラの先駆けであった。
5年で克服したこの年は、能面師としての実績を裏付ける出発の年となり、忘れることができない。
3年前に始めて訪ねた佐渡宝生流・ 本間家からは、吉川花意に特別な仕事を許された。
それは本間家所蔵の古面(13面)の修復作業であった。能面師としてこれ程栄誉な事はない。
更に新潟大和デパートで開催した個展を機会に、吉川花意の名がメディアに知れ渡り、雑誌の取材や各局テレビ出演の依頼が度々入り、その対応に追われる日々が続き、越後に能楽との距離をいっそう接近させる事となった。能面紹介でなく、楽しく仕事をしている人物紹介ではあったが。
翌年には皇太子殿下、妃殿下(現・天皇皇后両陛下)が御覧の鬘物(かずらもの)の演能に用いられ各流からの制作依頼を実現し、シテ方からの評価へと発展する。

吉川は初対面の人から時折名前の由来を聞かれるが「花意の花は世阿弥の風姿花伝」からとったと答え、また「花意の意の文字は音の心、立つ日の心と書くことから好きな字のひとつで、面に音を吹き込み、舞う為の心を打っている」と答えるそうである。
世阿弥の能楽論書・十六部集には花鏡や至花道など「花」に纏わる書が多く見られ、これにあやかって自分で命名した高位な名前で、自らに負荷を与えるように作品の制作に励んでいる。
能面師として中央で名が売れるより、越後にいて能面を通して能楽を発展させる方を選択したかった。
一門の冠をつけたら如何かと、熱心に勧められた長澤氏春師からの誘いを、有難く受け取りながらも丁重に固辞した理由がここにある。

桧皮葺の屋根を有する新潟能楽堂
 (写真提供・リュートピア)

「私はあと10年後に銀座で個展を開き、能楽不毛の地・新潟市に能舞台を造る新風を呼び込みたい」地元新聞・新潟日報社のインタビューを受けて掲載された、1987年に独立開業時の吉川の言葉である。
これ以降、メディアが注目する能面師の話題と共に、新潟日報事業局が事務局となって、1991年より新潟薪能が新潟総鎮守・白山神社境内などで催され、やがて、同志と作案した能楽連盟の収支報告案が県を動かし、新潟市民芸術文化会館に能楽堂が完成した。
殆ど見向かれなかった能楽が立派な市民権を得たことで、師の10年とした目標は、銀座の個展と同様間違いなく実現した。
新潟能楽堂は、技術の粋を馳駆した可動式鏡板や、竹林を持つ中庭など、既存の能楽堂では見られないハイレベルな仕掛かりで、訪れる観客を魅了させる。
越後は、おけさを始め民謡の宝庫と言われるが、唯一「相川音頭」でしか耳にしなかった小鼓の響音を市内の能舞台でも聴く越後人がいるのだと思うと嬉しくなる。


塾生の作品を手に優しく語りかける吉川花意師
(2007年7月撮影)

完成を焦らずゆっくりと時間をかけて面(おもて)を打ちなさいと教える。
吉川花意師が主宰する面怡会は、今年創立20周年を迎えた。
新潟県民会館に於て「第二十回・能面作品展」を開催する。
2007年10月17日(水)〜21日(日)(入場無料)


取材協力:面怡会北部コミュニティーセンター教室

「巻タリアンニュース」は巻高校OB生をつなぐネットワーク新聞です。
情報をお寄せ下さい。
送付先:東京・蒲田郵便局私書箱62号(主宰)橋本寛二
メール:makitalian@yahoo.co.jp
バックナンバーはこちら