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蒲原平野の想いをキャンバスに 画家・斎藤順正さん |
文中一部敬称略 | |
斎藤順正さん(40年・吉田)は、東京芸術大学・絵画科に在籍していた。 学年が進むにつれて、自分の大学は、一面においてひどく閉鎖的であると内面から感じるようになり、卒業年次になってからは、同じ学部の同志たちと何人かで仲間を作り、芸大構内にあった本館建物の空き室で、この頃流入してきた斬新な「立体作品」の制作に励んでいた。 教授会を相手に、これを卒業単位として認めるべきと団体交渉をし、ある者はステンドグラスの制作に没頭しながら、既成権力に対して屈することなく、卒業時に必須となっていた「平面作品」を拒み続け、当時始まりつつあった観念的アートを、石炭を使った作品で提示し、最終確定任意のまま芸大を後にしようとしていた。 卒業には何ら拘っていなかったが、卒業証書は、卒業式を欠席し、仲間と食堂で集まっている所へ助手が来て、個人的に深く尊敬する、指導教授で洋画家の脇田 和氏が尽力され、卒業認定は正規に済ませていた、と報告しながら持って来てくれた。 こうして社会へ出てから、デザイナー・イラストレーターとしての生活が始まり、フリーとなっても絵画制作に面と向かう事はなかったのである。 当時の景気は悪くなく、クリエイティブな仕事に対するオーダーもあって、結構都会で食って行けた。 職業としてイラストの仕事で、水彩画を描くことはあっても、絵画制作から離れていた期間は長かった。 その一方で、絵として描きたいものが何か有るにも拘らず、キャンバスに描けないもう一人の自分が存在し「描く勇気との葛藤」を続けていたのかもしれないと、自身の30代を振りかえる。 |
絵を描きたくなった動機 | ||
そんなあるとき 画家降誕のごとく、斎藤順生・誕生の瞬間が宿りだす。 そのきっかけとなったのは、色への思いつきであった。絵を描きたくなる動機は一様ではない。 絵画の原点に戻ろうと思慮し、思い起こしたのがキャンバスと同系色の「白」だった。 画サイズ一杯に白で満たす作品は、対象が限られており易しくはないが、情景として「雪」を連想した。 豪雪を日常としない蒲原育ちとはいっても、越後人は誰でも、子供の頃から雪を体験し肌で知っている。 やがて与板町(現・長岡市)の雁木沿いにあった家をアトリエにし、ここを拠点に、絵の制作が始まり何枚かの絵が完成した。新潟の雪景色でスタートし、白をモチーフに大胆に描くことで満足感があった。 1985年、「越後の冬景色」を、銀座の東京セントラル美術館に出品することにした。
斎藤さんの絵は、凡庸に屋根に降り積る雪でなく平野が雪で一面に覆われた冬の風景であった。 前後左右どこを見渡しても雪の白が幅を利かせている。 この1枚が、東京セントラル美術館油絵大賞展に入選。ここから生涯続く画家の、三十代最後に描いた情景は、今でも新潟のイメージポスターとして採用されている。 |
裸婦デッサンの思い出 | |||||
東京セントラル美術館は80年代を中心に、公募展で、日本画・油絵・裸婦部門などの俊才を発掘した。 前年の油絵大賞展受賞後、精力的な作品制作を続け、86年には「裸婦大賞展」に入選した斉藤さんは、風景画とともに、裸婦デッサンを自分の領域として確立する事となった。 大学在学当時、3年までは真摯に裸婦デッサンの授業をこなしてきた。 4年生になると、モデルさんが来る日は、授業を棚上げし、夏でも用意されている石炭ストーブでお湯を沸かし、お茶を飲みながら、だべったりする自由を楽しんだ。 旧体制の官主導とする日展解体や、闘争継続を叫ぶなど、他大学同様、紛争続きの学内ではあったが、芸大・絵画科の学生生活にはこんな一面もあったようである。 このような同期も、卒業後には、硬・軟派と多彩な個性を伸ばした輩が、メディアに度々登場し、中でも風刺イラストで高名な画家・貝原浩や、宮澤賢治の絵本画家・小林敏也らとは、時折合流して、彼らの仕事場にモデルさんを呼んで、プライベートな裸婦デッサン会を開くなど、思い出は尽きない。 小学校時代の教科書には、どのページも落書きでびっしり埋まっていたが、注意されることは無く、当時担任だった有坂英一先生(21年・岩室)は、音楽と絵だけを真面目に勉強していれば、他の科目はそこそこで良いとする、ユニークな教育方針を貫き通した。 教室のどの生徒も、毎日が生き生きしており、学校は楽しかったという印象だけが記憶に残っている。 以来、何十年か経過したが、有坂先生は、今でも新潟市内で開講している、NHK文化センターに於いて「裸婦デッサンコース」を担当し、斎藤順正さんとふたりで一緒になって、受講者たちに教えている。 この教室の入会者向けコピーには「モデルと仲よく楽しく描くと良い作品ができます」とある。 鉛筆・木炭・パステル・油絵と自由に選択でき、同じポーズを3ヶ月かけて完成させる講座に興味が沸く。 「正確さより個性的なデッサンを描きなさい」とする裸婦講座のテーマも面白い。 |
忘れることのできない先輩のアドバイス | ||
創立100周年記念モニュメントの制作者、彫刻家・茂木弘行氏は立像「プレリュード」の贈呈者A氏と共に、久しぶりに母校を訪れた。 |
還暦記念大会に集う巻高同期の仲間たち | ||
その彼らも、いまでは還暦を挟む年代となり、声を掛け合って、第2の人生を語り合ったりしている。 斎藤順正さんと同期の還暦会は、市内にあるホテルオークラ新潟において、100名が参集し、このホテルの取締役副総支配人をしている、藤田正四氏(40年・寺泊)の特別な計らいにより、500m2もあるコンチネンタルの間一杯を使って、華やかに執り行われた。 ホール中央のステージにある、どっしりした二枚の巨大な黄金の屏風が、ひと際目につく。 風景・静物・裸婦・挿絵などで確立した画家が、近年、一層力を入れている分野が、屏風・ふすま絵で、大会当日に、力作屏風絵二双が、8メートルの壇上に鎮座したのである。 六曲全面に伸び伸びと描かれた「弥彦の桜」で、春秋の大木が、思いっ切り羽を広げている雄姿である。 還暦会の参加者たちは、素晴らしい同期の存在に敬服し、そのエネルギーに圧倒されていた。 |
蒲原の田園風景・絵本「ハザ木のものがたり」制作中 | ||
蒲原平野を代表する「ハザ木の風景」は、多くの画家や写真家が季節のテーマとして捉え春夏秋冬の御姿を記録し、残してくれている。 |
ものがたり | |
舞台は、蒲原平野、遠くに角田山が見える。 主人公の、ハザ木は、枝が切り落とされその跡がゴツゴツといくつもコブになり、くねっていたが威風堂々としていた。 そこへ、蒲原の風景を求めて写真撮影の一行が現れ、カメラを向けているうちに、古参ハザ木との「感動的な対面」を果たしその中のひとりとハザ木との会話が幻想的に始まる。 ハザ木がカメラマンに語りかけた。 「昔は自分たちの仲間で埋まっていた。だが信濃川本流が決壊した時なんかは、蒲原全てが泥の海。 我々の仲間は濁流に流され、遠くに消えていった。人も家も、田んぼも同じさ」ハザ木は話し続ける。「分水という大工事が完成してからは、やっと洪水の被害はなくなった。 ところが夏場の日照りに水の取り合いで、村人達の争いが絶えない。我々から見るのも辛かった」。 こんなつらい話ばかりして悪かったと、その古参は謝りながら楽しい話をしてくれた。 それは、ハザ木の晴れ舞台の話である。 「秋になると見渡す限りの田んぼが黄金色に輝き溢れ、日本一のハザ木仲間の登場さ。 刈り取られた稲束が、瞬く間に下の段から上へと吊るされて、やがて黄金色の壁が出来上がり、これこそ蒲原全体が巨大迷路になり、実りの香りがいたるところに充満する。わしの大好きな匂いだ。 満たされた幸せの香りだ。遠くから見て重いだろうにと、余計な心配もしてくれるがかまわない」。 ハザ木の思いで話はまだまだ続く。 「農作業の昼時には、並木の周りに皆が集い、楽しそうに弁当広げていた様子を、上から見ていたし、坊さんが毬をついて子供たちと遊んでたりもした。冬になると、瞽女さん達がハザ木並木をゆっくりと、幹を目安にして歩いていた。我々は彼女たちの雨風よけにもなったし、雪道の目印にもなっていたんだ」古参の話は、なかなか終わらなかったが、日も暮れてやっと撮影隊の一行が帰る時刻になった。 |
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ハザ木のフィナーレ | |
やがてクリスマスの季節がきた。 「イルミネーションで、ハザ木を飾りつけてやろう」。カメラマンは、あのハザ木の辺りにやってきた。 しかし何かがおかしい。いつもの風景は崩れていた。 ブッツリと根元から横に切り取られ、大きな株あとだけが白々と残っているではないか。 カメラマンは大慌てで村人達に聞き歩いた。「あそこにあった一番大きな、ハザ木を知りませんか」。 やっとのことで「俺たちが5人がかりで難儀して、切ったんだ」と言う村人に会うことができた。 村人は「頭のところは節が多くて、ノコが使えず、腐っていた足元や枝をまとめてクレーン車で持って行ったよ」「たしかあっちの方へ持っていったなあ」と、角田山の方角を指差した。 カメラマンは急いで山を目指し車を走らせた。途中のワイナリー工場に差し掛った時、何やら声がした。 敷地の隅へ眼をやると、聞き覚えのある声が、薪小屋の脇から聞こえてきた。 「おお、カメラマン君、よくわしの居るところが判ったね。枝も胴体の下の方も切り取られちゃって。 今ではこんな姿さ」。あの古参ハザ木だった。 「そんな悲しい顔ばかりしないで、ストーブの燃料にされないうちに、俺を写してくれ」。 カメラマンは、やっと我に返り、夢中になって写真を撮り始め、「来年の5月に、弥彦の美術館であなたのありのままの姿を発表します。いいですか」と尋ねると「それは良かった。今、ロビーの薪ストーブに、私の足が燃えてるはずだ。その傍らでまどろむ猫たちの夢の糧になるならば、それはそれでいいじゃないか」 今ではすっかり容姿が変わってしまったが、老ハザ木の表情は、人生を全うしたかの如く輝いていた。 カメラマンは、ロビーへ廻った。 室内の薪ストーブの中で燃えている足を撮影し、ゆったりと眠っている猫たちも写した。 写し終わると、冬枯れのブドウ畑の農道を通り、カメラマンは帰って行った。 車の窓から薪ストーブの煙突の白い煙が見えていた。 見覚えのある蒲原の風景であったが、どこか寂しそうでもあった。 |
これは、斎藤順正さんの絵本原稿を基にして、ストーリーを創作構成したものである。 自身が描いた物語のシーンを映し出す多数の情景絵は完成し、現在掲載作品を厳選中で、2009年5月に、弥彦美術館で開催される同氏の個展までには、絵本として出版予定であり、原画と一緒に同時出展される。 ここに登場してくるカメラマンこそ、蒲原平野に想いを馳せ、優しく見つめておられる画家・斎藤順正さん自身あると、取材中に確信した。 |
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