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恩師・バレーボール部監督・柬理 猛先生 出会いと別れ 整体工房院長・渋木光栄さん |
文中一部敬称略 | ||
ギリシャ語でHANDを意味する「CHIRO」は、チロと読みたくなるが、正確にはカイロである。 カイロプラクティックの看板は、街のどこかで必ず目にする程普及し、現代人には馴染みの言葉となった。 この業界を関連サービスの形態で分類すると、類似同義語が多数存在し、アプローチがしずらくなるが頭部と骨盤を連結する脊推骨の、微小な歪みを発見し、正常な位置に復元させるビジネスのようである。 |
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背筋は実に200Kgを超え、これを利用した強烈な馬力のスパイクは、いつも対戦相手から恐れられていた。 実は、ジャンプ力が足りなかったと謙遜するが、激闘するコート上で長身から一撃する、突き刺すような破壊攻撃が持ち味であった。 しかし、見返りにボールから受ける肩の衝撃は、想像を超えており、「肩が動かなくなったらバレー人生も終りだ」と常に心を決めていた。 実業団バレーチームの在籍当時は、試合ともなると、黄色い声援に包まれた中での格闘技の如くで足腰の故障があっても、ひたすら勝利を目指して戦う日が続いていた。 チームには専属トレーナーや常勤のドクターが、症状別にあらゆる療法メニューをインプットしており、彼らの迅速な判断と的確な施術が、選手生活の維持・継続に大いに役立っていた。 こうした体験を教訓に、現役を離れてから、会社勤めに専念した後、次なる人生の準備に取り組んだ。 人間は、体のどこかに故障が発生すると、これを回復させる自然治癒力を生まれながらに備えている。 これまで受け身だった健康管理を、整体施術をマスターし、多くの人に矯正のお手伝いをしようとJCDC(日本カイロプラクティックドクター専門学院=大阪)に入り、療法技術を習得しそのために必要とする専門知識を学んだ。 これが、人気カイロドクター・渋木光栄誕生への第一歩であった。 施術の質は、テクニカルな方法論と同時に、基礎医学である、病理・免疫・運動学やX線診療学等の知識の深さで決まってくる。トップアスリートを突っ走ったエネルギーを、整体研究の世界に舵を切り学び得る可能な限りの教科を吸収した。 |
整体施術は、触診して体内を推測することが基本となるが、それ以前に解剖の経験があれば、人体構造を緻密に理解でき医学チャートや画像でしか知ることの出来なかった、各部位の骨挌筋は、厚さや弾力が判り、血管は実際の触感や太さが判る。 こうして研究心旺盛で、体力とテクニックを兼ね備えた基礎医学知識の豊富な、カイロドクターへと変身し大阪市内の整骨院技術チーフを経て、08年2月に新潟市で「整体工房」の城を開設した。 カイロプラクティク、アロマセラピー、キネシオテーピングのプロとして、時にはインストラクターやトレーナーを兼務し、工房に訪れるクライアントに優しく対応している。 |
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28歳・柬理先生赴任 | ||
1973年(昭和48年)春、巻高は公立高校にあって、それまでは地区大会や県大会の試合などで2〜3勝する、極めて普通の男子バレー部が、競技に勝つための部活動としてのコンピテンスを有する強豪バレー部へと生まれ変わる、幕開けの年となった。 サンパチ会(昭和38年卒同期会)は、例年の集いで、仲間の母校赴任が大きな話題になっていた。 その同期生とは、柬理(かんり)猛氏であった。在学中は、器械体操の選手として活躍した彼を知る者は教育学部卒業後、体育科教師として他校で教鞭をとっていた事は知っていたが、自分たちが10年前に巣立った白楊校舎に異動したとなると、格別な思いであった。 校内新聞のインタビューでは、「私はこの学校で存在価値があるような人物になりたい」と着任早々の抱負を語っていたが、やがてこれがバレー部監督として開花し、知将への道を突き進み18年間の在任中で、総体・春高・北越など、合計15回出場するバレーの名門校に育てあげた。 柬理は、部員達に闘争力を教える傍ら、この経験を、指導者としても生かせる育て方に専念した。 この狙いは見事結実し、彼らが卒業後現在に至るまで、県内において毎年、試合の上位決定戦で戦うチームを引率する監督・指揮官は、巻高バレー部出身者で独占する結果となっている。 石山雅一(52年卒 東京学館新潟)、早川礼文(59年卒 高田工業〜巻)、田中純一(平成2年卒 上越総合技術)と名を連ねる高校の現役監督は、かつては、柬理先生に深く自分たちを気遣う心を抱かれなら指導を受け、教職員となり、どの職場においても偉才を発揮し、理念を次代の若者たちに教え続けているのである。
吉田中学は、県内のバレーボール選手権で何回も優勝を重ね、卒業すると巻高でバレー部員として活躍する生徒も多い。 |
インターハイ初出場 | ||
柬理は、メディアで華々しく取り上げる春高バレーと、インターハイとの同時出場を照準にした戦略と組織の育成を考え、日頃の練習に熱意を注ぎながら自らをしごき、技術を独習し部員達に教えていた。 その一方で、試合の後や普段でも時折、バレーボール部全員にノート提出を義務づけ、勝敗に関係なく、自分が思っていること、反省すべきこと、良かったこと等を文字で残させた。 全員で一冊づつ提出するとなると、読むほうも容易ではないと思ったが、コメントやアドバイスとして時には厳しい意見を添えて、受け取ったノートに書き込んでから返却していた。 一方、渋木は3年になると、部員同士の話し合いで決めたキャプテンになり、まとめ役として立ち廻った。 チームは順調に仕上がり、春の選抜県予選で準優勝し、北越大会に出場したが、1回戦敗退に終わり、年間目標の一つであった、全国選抜大会出場を逸した時、反省会を兼ねたミーティングで「自分たちの攻め方が悪かったわけではない。唯、相手が想像以上に力のあるチームだったんで・・・」その場を和まそうと、冗談半分で生意気なことを言ってしまった。 柬理は信頼していた渋木がマイナス思考を持ち、これを是正しようと「お前には主将の資格は無い」と皆の前でキャプテンの座を外す、大胆なペナルティを与えてしまった。 1週間位後になって、主将の座は復帰できたが、調子に乗っていた自分を反省した、と渋木は振り返る。 1981年6月、再度キャプテンとして出場した県の総体予選で優勝し、バレー部創設以来記念すべき、インターハイに初出場の年となって恩返しができ、これ以降の後輩に、先鞭を付けることとなった。
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スカウト合戦 |
柬理の監督就任8年目、スピードとパワー溢れる巻高男子バレー部に対して、大学や社会人チームが注目するようになり、データを収集されはじめ、3年生渋木光栄の周辺にもスカウトが集まった。 |
社会人バレーからビジネスマンへ | ||||||
松下電器バレー部にスカウトされて入った新人は、高卒3名・大卒2名であったが、社内報やスポーツメディアに、全国から選び抜かれた5名だと紹介されるたびに、緊張感が増してきた。 実業団バレー・松下での練習がきつかった事は勿論であるが、それ以上に人気チームの選手としてのプレッシャーは計り知れなかった。 年間スケジュールは決まっており、朝から晩まで練習そして試合の転戦が六ヵ月間続き、シーズンオフの半年間は、午前中が会社勤務となり、ステレオ事業部で製造管理に携わり、午後が練習時間に与えられた。 基礎練習に明け暮れた巻高バレー部時代は、骨折でもしない限り、常時出場は保証されたていた。 今は、企業人としての自覚を持ち、いつでも試合に出れる基礎条件としての自己管理を要求される。 理論的な練習や科学的なトレーニング法を教えられ、反復を繰り返す毎日が続いていた。 これらすべてを朝から晩までこなすと、脳から四肢に伝達する時間感覚が無くなってしまい自意識だけでコントロール出来なくなる。 ところが皮肉にも、自分の肉体でありながら、己の体でないような感覚に到達すると「この瞬間が結果的に、それまでのバレー人生で、最高のスパイクを打てた」と振り返る。 余計な計算を脳に与えないため、無駄な動きが無くなり、悟りに到達した禅僧の境地に至るのであろうか。 入部5年目の春頃から、長身故負荷が腰や膝に掛かりやすかった渋木に、肩の痛みが襲いかかってきた。 他のチームメイトも同じであったが、専属トレーナーの世話になったり、治療院へ通ったりしていた。 故障中に受けた治療で、即治癒した驚き・感激は忘れられない。これが後年整体の道を選ぶ源となている。 松下電器バレー部には、5年間の現役生活で区切りをつけた。だがまだバレーは続けられる。 88年、第43回京都国体が開催された際、松下電子産業へ異動し、9人制バレーで出場したのを最後に実業団バレーを引退した。その後は、社員として照明事業部に在籍し、インドネシア拠点工場に勤務し、重点マーケットの営業統轄者として、スポーツの世界からビジネスの最前線で活躍するのであった。
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謝恩会にて |
バレー部顧問・柬理先生の謝恩会は、3年前にホテル新潟で開催され、OB69人ほどが参加した。 全員が、我こそ一番の愛弟子の雰囲気の中、その席で、先生にピンタを喰らった数の話になった。 先生は「シブキ、お前が一番その数が多かったと思うが」と話すと、盛り上がる宴席の全員が同意した。 実際、生意気盛りでエネルギーが溢れていた高校時代は、先生が熱心に指導されているにも拘わらず、調子にのったり、自分のペースに合わせたりと、何かと反発していた事を覚えている。 ところが190センチの自分より40センチ位小柄な先生は、ピンタをしたくとも、まともに届かない。 その度に、踏み台を捜す訳にも行かなかったらしく、説教しているその場でジャンプ一番、右手を伸ばしてスパイクの体制で飛び上がり、下降点に達するや、その右手を水平に振りまわす。 さすが元器械体操の名手らしく、足のバネはしっかりしており、今考えてみると、ジャンプ後の着地も微動だにしない。実は、よけるに十分な間があったが、そこは素直に「愛のムチ」を受けることにした。 先生にばれない様にではあるが、直前に少し体を開き移動して、ピンタの衝撃を緩衝していたが・・。 こんな高校時代の3年間は、柬理先生と毎日が共同の生活のようでもあり、一緒に呼吸をしていた。 |
先生が書き綴った闘病記 | |
しばらくすると、奥さんは3冊の分厚いノートを持って来られた。 先生はこれを見せながら静かに話しはじめた。 「整体の仕事は、患者の気持ちを理解できなくては何もできない。このノートは、長年の闘病の一部始終を俺が日記にしたものだ」 タイトルを見ると、心鍼堂治療日記(1〜200)とある。 「お前が整体治療に行き詰った時にこれを読め。この200章が必ず知恵を与えてくれる筈である。何故なら、俺がどんな治療を受け、その際、何を思い、何を感じていたかを患者の立場で記したからだ」 先生は、中央高校へ異動された頃から体調不良を訴え始め、定年の頃には、脊柱管狭窄症がかなり進行していたそうである。 読むと、平成14年10月から19年6月21日迄、治療をうけた内容の詳細が克明に綴られていた。 特に神経筋骨格系や生理学系の名称などを正確に表現し、専門医学用語も多く見受けられ、発症してからの時間経過、その時の治療、使用器具、効果、痛み・忍耐のつらさ等が記されていた。 この3冊は、整体工房で施術に携わる際、最高の参考書として大切にに保管し、繰り返し読み返している。 |
最後の訪問記 | |
無性に先生の顔を見たくなり、同じ心を抱く友人の児玉吉弘と、妻の3人で押しかけたのである。 先生の体調は、良くない事はお聞きしていたが、電話すると、「少し位なら良い」とのお許しを得た。 部屋に上がると、酸素吸入器を装着しておられたが、愛しいわが子を見つめるような優しい眼差しで、我々を迎え入れてくれた。 だが、お一人で起き上がることはできなかった。 「一緒の写真を撮って早々に退散しよう」と打ち合わせ通りの手順で、これを先生に告げると驚いたことに「上手に撮れや」と言いながら、少し震える手つきで、酸素吸入の管を外してくれた。 「もっとこっちに来い」と促されながら、先生の傍に寄り添い、希望が実現できて興奮気味な児玉、そして夢中になってシャッターを切る自分。「カシャ」。この間僅か数秒の出来事であった。 所が次の瞬間「シブキ、お前も隣に来て俺と一緒に写れや」と予期せぬ先生のお言葉。 慌てながら女房にカメラを手渡し、これまた興奮しながらシャッターを切るわが妻。「カシャ」。 しっかりと握りあった手の温もりは「よく来てくれた。お前も一人前になったなあ」とでも言いながらかつての教え子に甘えているような感触であった。 これが、柬理先生と渋木光栄との、今生での永久の別れとなってしまった。 |
平成21年2月12日未明。柬理 猛先生の訃報を聞く。享年65歳。 |
先生と2人の写真は我が職場・整体工房正面にある神棚の横に安置している。 渋木光栄 |
35R教室風景(昭和57年3月卒業) 担任・柬理先生からの黒板メッセージ(卒業アルバムより) |
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その35ルームは、いつも活気が溢れ、人呼んで暴れん坊クラス。 「誰も担任のやり手がないので俺が手を上げた」が先生の口癖だった。 70年後半から80年代前半にかけ、非行・ヤンキー・校内暴力が問題視され、生徒たちの集団行動が目立っていた。 現代の如く、外観上はおとなしく振舞いながら、影で陰湿行動をとる現象とは異なっていたが、教育指導法に王道はなかった。 スポーツモデル校を誇る巻高は、文字通り運動部の活躍が著しく幸いにも、個々が目標を持ちながら前進していたように思う。 柬理先生は、教壇に立ちながら生徒に向かって教える授業と、自ら生徒の机に座りながら意見交換する、並行方式を取り入れこの時とばかりに、奔放発言する生徒の言葉を、直に聞きながらいつの間にか、進むべく方向づけをする、知将型熱血教師であった。 |
渋木光栄さんの職場 | |||
神戸出身のセラピスト・由香夫人と工房を経営し、地域密着型を モットーに、いつもアットホームな雰囲気を漂わせている。 |
「巻タリアンニュース」は巻高校OB生をつなぐネットワーク新聞です。 情報をお寄せ下さい。 送付先:東京・蒲田郵便局私書箱62号(主宰)橋本寛二 メール:makitalian2@yahoo.co.jp |
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