第6号
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活躍するOB(昭和18年卒) 剣道範士八段 斎藤泰二さん 昭和18年(1943年)は太平洋戦争真っ只中の頃である。 英仏両国がドイツ軍に宣戦布告して4年経過。フランスは既に降伏。 昭和16年・ドイツとソ連軍が開戦。そしてこの年の12月、 日・米が参戦し太平洋戦争の勃発となり、日本が降伏調印する 20年9月まで、延々と第2次世界大戦の時代が続いた。 大戦の時代、昭和14年9月から20年9月迄、6年間の戦時下に 旧制巻中学校で学んだOBは、800名を超えている。 |
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この時代を旧制巻中学校生として過ごした同窓生斎藤泰二さんは、昭和13年4月に入学し5年間学んだ。 入学した生徒数は100名いたので2組に編成された。中之島勤労作業・弥彦行軍・雪中教練・銃剣作法、全てこの時代を物語る、こなすべき授業であった。 弥彦行軍は1年から5年生全員で「巻脚袢」をつけて、校舎から弥彦神社境内まで行軍した。 斎藤さんは8歳の頃から剣道を習い、旧制巻中学に入学するや迷わず剣道部の一員となった。段位を取得する事には拘らなかったが、卒業後上京し国士舘時代も剣の道を選び、昭和20年3月には「本土決戦部隊」として学徒動員され、宮城県・石巻で終戦を迎えた。 警視庁へ入庁後は、GHQによる武道禁止の時代もあったが、やがて警視庁道場で、各警察署から修行に来る武道指導者達を、ここで練磨させた。警視庁教養課には、新潟県出身で2人の猛者がいた。 保坂調司氏がその一人で、射撃の名手である。保坂氏は、浅間山荘事件では狙撃隊長を務めた。 そして同じこの教養課に在籍し、こちらは剣道師範の猛者として、斎藤泰二さんの姿があった。 今でも一瞬の隙のない眼光に、剣の達人を見る。 |
斎藤八段へ贈られた柳家小さん師匠の書 |
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斎藤さんは、剣友だった北辰一刀流範士で人間国宝、落語家の故柳家小さん師匠(1915−2002)との親交を通し、師は「人間的な、心・技・体すべて尊敬すべき人物」と、かつてを振り返り、その卓越した精神を、後輩指導に生かしている。 |
旧制巻中学校 小和田毅夫 第13代校長のころ 昭和16年春、新校長として、それまで8年間在任されていた,秋野亀太郎校長の後任として皇太子妃殿下・雅子さまの祖父、小和田毅夫校長が着任、斎藤さんが卒業する迄の2年間在籍された。 現在の巻町役場後ろの通りになる、巻町仲江に住んでおられた。 |
小和田毅夫校長44歳(2列目左から2人目) 斎藤泰二さん(前列右端)の記念写真より |
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小和田毅夫 第13代校長 (在任・昭和16年3月〜18年3月) 「何事においても,己の行いに対して、 不要なる邪気にとらわれず、 逸機なく信念を全うすべき」と、常々、明瞭・明快に教えていた。 平成5年10月19日、教育に奉げたその生涯の幕を、95歳で閉じた。 |
剣道斑は最も人気の高い部活であった | |
当時の剣道班監督、笛木甚一郎先生(前列左から4人目)は正義感溢れ 常々、明瞭・明快に教えていた。 多くの生徒に信頼が厚く、部員総数は60名近く在籍していた。 (18年度卒業生・前列左端が斎藤さん) |
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積極的に参加した班活動 左の表は主な班活動の構成人数(最上級生)である。 「部活」は「班活動」と呼ばれ、全員が真剣に参加していた。 昭和40年代になっても存続したタイプライター班は、貴重なタイプ機を、生徒達で、丁寧に共有しながら練習し、人気の班活動であった。草創の頃である。 芸能班は、現在の美術クラブも兼ねていたようである。 この他に図書・体操などの班があった。 (班名の漢字は、現在の当用書体に変換) |
学校ニオキテ剣道ヲ禁ズ。サンフランシスコ講和条約発効迄の7年間 | |
明治後期には、学校の正課で各種武道が取り入れられ、大正・昭和になるにつれ、最大の隆盛期を迎えていた剣道だったが、世界大戦終結後の、昭和20年8月以降は、軍事強化の恐れ有りと、学校活動としての武道(剣道)が、禁止されてしまった。 更に昭和24年からは、警視庁においても、その範囲が拡大された。 鍛錬しようにも、道場で「エイー」と大声を出す事が出来ない。 斎藤さんは、心眼錬成で、日本国歴史上の転換期迄待った。 昭和27年4月「サンフランシスコ講和条約」発効。 この時にして、やっと日本国は、剣道解禁を確実なものとした。 オペラハウスにおける講和条約の調印式で、主席吉田茂の後方に立つ、武道愛好家・池田勇人は、どんな思いで見守っていたであろうか。 「日本武道館建設」迄には、まだ時間を必用としたが。 ○講和条約の、認証謄本は、「外務省外交史料館」で閲覧可能。 |
吉田 茂 首相 昭和26年8月31日49名の全権団を引き連れ渡米・調印へ。 ( 写真所蔵・外務省外交資料館) |
正力松太郎(衆議院議員)ら日本武道館設立へ奔走 | ||
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武道解禁から数年経過した昭和36年、国会議員525名の有志は、更なる武道振興を目指し、正力松太郎を会長にして「武道会館建設連盟」を結成。翌年には、会館建設が本決まりとなった。 昭和39年(1964)秋、遂に「日本武道館」完成。剣道禁止令が、昔の物語となる。 設計者は、屋根に「富士山」をイメージしたが、後に、頂上の呼称「玉ねぎ」が一般的となった。 現在は、武道会場のみならず、入学式や入社式、企業イベント、コンサート会場として幅広く利用されているものの、当初はエンターテイメントの用途で使用する事には猛反対されていた。この口火を切ったのが、昭和44年(1969)6月の「ビートルズ日本公演」であった。多くのファンを熱狂させたこの武道館公演は、やがて広義における目的と合致する事と認められ、業界人が目指す究極のコンサート会場となった。 ドームやアリーナ公演の隆盛はこの20年後である。 |
剣道の世界 称号の重み・段位の実力 | |
斎藤さんは京都で開催された、剣道連盟主催の、「全日本剣道演武大会」(5月3日〜6日)に出場し、腕慣らしと、旧友との再会をして来た。 段位は技の力量であり、8段は、現制度の段位として、最高段者である。 そして、剣の道における、指導力及び識見を具えた者のみに与えられる「範士」は、称号として最高位を示す。 「範士八段」を保有、且つ維持している、誇るべき同窓生の一人である。 |
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